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合気評論13

もしも、ここで植芝家に残されたといわれる「相生流」なる柔術が存在したとするならば、その伝承なり技なりを世間に発表すべきであります。無形文化財としての古武道の存続の意味においても、植芝翁個人で継承を断ち切ることはできないはずです。そして、当然のこととして武道史に記録させなくてはならない義務があるからであります。

古流柔術の研究家としても著名であった嘉納治五郎氏は、盛平氏の「相生流」を見学して、その武道歴の中に中井正勝氏の名前を聞きました。嘉納氏自身が当時中井正勝と親しかったことから、柳生心眼流の極意を聞いたところ「合気の大事なる一巻」及び「合気剣の秘伝」があることなど説明を受けたとのことです。

その後、盛平氏は「相生流」から合気柔術に名称変更している。ここに盛平氏が合気柔術を名乗るに至った武道歴を参考のため列記してみます。

明治20年ごろ(盛平氏10代)起倒流柔術-戸沢徳三郎 
 吉祥丸氏によると、磯氏の系統である戸沢徳三郎に習ったとしているが、磯氏の系統であれば天神真揚流柔術が正しい。吉祥丸氏の調査誤りであろう。
 
明治41年(盛平氏20代)柳生心眼流-中井正勝
 吉祥丸氏の著書によると、柳生流柔術と紹介されているが、これも吉祥丸氏の調査不十分による誤りです。中井正勝先生は柳生心眼流の師範でした。

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