武田惣吉のこと5
ところで、農民に相撲大会をやらせ雑兵として活用することを考えたのは織田信長であった。今川義元の5万の大軍に対し、わずか4千の手兵で戦わなければならなかった信長は、木下藤吉郎(秀吉)を台所奉行として、味噌の買い出しを口実に農民を説得し、各地で相撲大会を開催し、当時高価だった白木綿を賞品として配り、決戦の時、幟(のぼり)として織田領地に立て、織田主力の行動を隠した。秀吉は信長の越前征伐の時、その準備として、相撲大会と銘打って力自慢・腕自慢の牢人などを広く近畿から呼び集め常道寺に何千人という力自慢の荒くれ者を集め、見物人も何万人も集まったという。そしてこの中から300人近くの人夫を召し抱えた。
このように戦国時代から武士の不足分を相撲大会で集めたものの中からリクルートするという手法はあったのだ。惣吉が「白糸」の草相撲の大関という名を持っているということは、惣吉は武士ではないことの証である。(完)