謝礼問題5
昭和6(1931)年ついに盛平は惣角に捕まりました。惣角のその後の対応を考えると、盛平は次のように弁明したと考えられます。①大本教への義理から入門料を徴収する訳にはいかなかった、②約束の入門料を支払うために陸海軍関係者に指導する必要があった・・・、惣角は根が正直な人物で、盛平に期待するところも大だった(久琢磨にはまだ出会ってない)ことから、虚偽報告を故に破門することなく、盛平に疑義をもちながらも更に実戦的な技法を伝授するという奇策にでたのでした。
ここで伝授されたのが御信用之手36ヶ条でした。これは大東流柔術の応用技法で、富木謙治らの証言によると、盛平への個人指導として扉を閉め切った(見学禁止)中で行われ、投げられた畳の音と盛平の悲鳴だけが聞こえたそうで、稽古後しばらくは一人で風呂にも入れない状態だったそうです。盛平の武道家としての名声が上がるのはこの時の稽古の後だったのです。
その後、盛平は昭和8(1933)年に皇武会を立ち上げるなど、惣角の期待を裏切り続けることになりました。
昭和11(1936)年6月、惣角が自ら大東流を指導するために朝日新聞社道場を訪ねて来た際も盛平は惣角から逃げています。
最後に昭和41年の武田時宗から鶴山先生への書簡を紹介しましょう。
「拝啓 会報のご送付賜り誠にありがたく存じます。御貴殿様には日夜斯道に御精励御研究の趣き承り、誠に喜ばしく存じます。小生も目下社用多忙にて余暇をみて武道指導に励んでいます。
先般植芝先生のお話を承りましたが、植芝盛平が本名にして、一時大本教教主出口氏より「守高」の名をもらい名乗っていたのです。
植芝先生が父惣角に初めて教えを受けたのは、大正4(1915)年2月末のころで、大正5年に目録を受け、惣角の助手として随行し小樽市外に地方稽古にもでております。
その後、大正11(1922)年に半年くらい京都府綾部にて惣角より教授をうけております。
植芝先生と同門であった方々の話によれば、紀州より明治45(1912)年ごろ移住民として白滝に入植した人(北海道白滝開拓団団長)で、武道の心得はなかった人(柔道の受身を少々知っていたことから惣角の目に止まった)であったとのことです。惣角より合気柔術の外、剣術、棒、槍等総合武道の教授を受けており、植芝先生はいつも東京で大東流を広め身を立てたいと申し、惣角の了承も得ていたのであり、昭和2年ごろ浅野中将の道案内で上京した植芝先生の前途を祝福し、我が子のように喜んで人にも話していた惣角でありましたが、浅野中将より植芝先生が自己流を宣伝して困る旨の通知があって上京したこともあります。
植芝吉祥丸の著書になる「合気道」の中に植芝先生が惣角より明治末期に「一技数百円」(≑50万円)で習った高価な技であるように書いてありますが、これは針小棒大の悪口で、当時は白滝方面に来ておらず、教授料も「1か条30技」を拾数日教えて一人10円(≑4万円)謝礼金として謝礼帳(*)に署名押印しなければ受け取らなかった人で、この謝礼帳2冊は私が保管しておりますので真実を証明できる訳です。また、当時は5か条計118か条を修得して初伝の目録を伝授された訳であります。(続)
(*)謝礼帳とは、領収証書のこと、一般的に領収証は支払った相手に発行するものであるが、惣角は武術家として金銭の潔癖性を守るため相手に実際に支払った金額を書かせていた。