合気評論24
3大東流柔術について
大東流合気柔術そのものの開祖とは、新羅三郎義満(平安時代、大治2(1127)年没)であるとされております。その十余世伊豆守信満の時代になって、当時の宗家であった武田勝頼が天目山で自害した。武田信満は長男国継とともに会津に流れて会津藩に仕えました。
武田信玄の死により武田家がまもなく凋落をたどるころ、浪人をしていた武田流忍法の達人大東久之助(武田家において三つ目と称されていた士分格の忍者)が会津藩の御庭番として推挙されました。ここに武田流柔術の技が会津藩に引き継がれることになったのです。
大東久之助は、宗家ではなく秘伝の伝承者ではないこと、武田信満に拾われたことなどから、公然と武田流柔術を名乗ることをはばかって、自己の姓を取って大東流柔術と名乗ったといわれています。大東久之助が会津藩の御庭番として仕官することができたのは、当時において武田家の家臣の忍者は、他国の忍者より優れた者が多かったからでした。