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合気柔術と柔術の区分(中)

一方、合気柔術は新陰流兵法を基本理念としている。江戸柳生の剣法を体術的に現わしたものといえる。この江戸柳生系合気柔術の最後にも多人数捕が置かれている。このことが、大東流関係者の考え方、理解の仕方に混乱を生んだのである。

武田惣角はともかく大東流は階級に応じて指導せよという頼母の指示は理解し守っていた。英名録を見れば各界の相応の人が指導を受けていることがわかる。

惣角が久琢磨に免許皆伝を出したが、これは合気柔術のみを独立させたものではない。あくまでも大東流全体、すなわち3大技法としてのものであった。

大正11年惣角は、植芝盛平に柳生流柔術の初伝技法を公開した。その後、この技法を指導した盛平に対し、改めて、柔術を簡易化した合気柔術の個人指導を行い合気柔術には二系統あることを示したのである。実戦的ということにとらわれていた惣角は、(江戸柳生系)合気柔術よりも柔術及び柔術系合気柔術を重視していたようだ。正規の合気柔術と大東流の全容は久琢磨に託したが、晩年は、柔術のみの免許皆伝者を探していたらしい、山本角義が残した言葉にそのことが幾つか残されている。


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