大東流の三大技法(続)16
この指導が、植芝が惣角から受けた最後のものでした。昭和6(1931)年3月20日~4月7日まで牛込区若松町の植芝宅において、大東流合気柔術八拾四ヶ條御信用之手を個人教授されたのです。
3月23日までは、甥の井上要一郎(方軒、後に鑑昭(のりあき)と名乗る。新和体道後に新英体道を創始)も同席したようですが、24日以降は個人指導でした。この時の逸話も有名です。この稽古は誰も見ることが許されず、門人の富木謙治によると、閉め切った戸の外に控えていると、投げられた畳の音と植芝の悲鳴がだけが聞こえた、とのことです。また、稽古が終わると一人では風呂には入れない状態だったそうです。
この大東流合気柔術八拾四ヶ條御信用之手というのは、大東流柔術の技法を実戦的に用いる試合用の手です。形としても厳しい技法を実戦的に応用する、惣角は手加減しなかったハズですから、悲鳴と共に烈しく消耗することは容易に想像できます。そして、この稽古を境に植芝の実力が飛躍的に上がったと言われています。基礎をマスターしていたところに、その正しい応用展開の手法を教わった訳ですから完璧です。なお、この時の謝礼は300円でした。それまでの入門料不払い等精算する意図も見受けられます。そして、おそらく惣角は植芝の実力を認めつつ、これまでの植芝の対応を見る限り、自己の道を進もうとしていることは明らかであり、自身の後継者とすることは断念したのでしょう。その証拠に、久琢磨に指導した江戸柳生系合気柔術の中伝以降の技は教えなかったからです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?