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36歳。サッカー選手になりたかった自分は今、ナイキで働いている。

はじめまして。西岡淳(にしおかじゅん)と申します。

6月生まれということで、祖父がこの名前をつけてくれたそうです。(ちなみに祖父は全く英語はできません…笑)

紆余曲折を経て、今はスポーツブランドのナイキでマーケティングを行っています。スポーツ業界に足を踏み入れてもうすぐ15年になりますが、実は最初に思い描いていたキャリアはまったく別のものでした。

僕はもともと、サッカー選手になりたかったんです。

中田英寿選手に憧れて、サッカー選手を目指した。

北海道、帯広で生まれた私は、小学3年生で近所の友達にサッカー少年団の体験会に誘われたことがきっかけでサッカーを始めました。

当時は、サッカー男子日本代表が初めてワールドカップに出場できるかどうかがかかった年。

中田英寿選手が若者ながらイタリアに行き、活躍していたことで「中田みたいになりたい!」とどっぷりサッカー選手になることを夢見て毎日ボールを蹴っている幼少期でした。

中学生になると、アイルランド人のサッカー好きの英語講師が部活に顔を出してくれるようになり、イタリア語をペラペラと話している中田選手に感化されていた当時の私は、この先生との出会いにより、英語を話せるようになることも自分の中で大きな目標のひとつになっていきました。

自分には、サッカー選手になれるほどの才能はないのでは?

しかし、高校では第一志望の名門サッカー校高に進学できず、英語に強いという理由で選んだ大学も不合格。滑り止めを受けていなかったため、思いがけずプー太郎になってしまいます。

ここで気づきました。自分には、サッカー選手になれるほどの才能はないのでは???

心のどこかではわかっていたのかもしれません。でも、これまで「サッカー選手」以外の選択肢をまったく知らずに生きてきた私。どうしても大好きなサッカーに関わる仕事がしたいと、いろんな道を考えました。

そこで浮かんできたのがサッカーコーチです。選手としてプレーできなくても、指導者としてフィールドに立とう!と。

それからは、コーチングが学べる学校を探し、母校での指導をしながらアルバイトでコツコツとお金を貯める日々が始まりました。

ただ、やっぱり大学生活を謳歌している地元の友人に会うと辛いというか…。自分はこのままで本当に大丈夫なのか、不安だなというのは正直あったと思います。

それでも1年間耐えて、翌年になんとか語学学校に行き、そのまま幸運にもアメリカの大学へ進学することができました。

しかし、早々に挫折です。(早い)

いざ進学してみたら、英語が全く聞き取れず、話せず、授業にもついていけない。ホームシックにもなり、情けないことに最初の3ヶ月は本当に毎日泣いていたと思います。人間こんなに泣けるんだっていうくらい泣きました。(部活で最後の試合に負けた時にもそこまで泣かなかったのに!)

自分の挑戦を応援してくれた地元の友人や両親の顔が頭に浮かび、「自分は何をしにここにいるのだろう…」と自問自答。本当にこの時は辛かったですし、今思い出しても辛い。自分で望んで来た癖に日本に帰りたくて仕方がなかったです。

しかし、そんな自分を救ってくれたのも、やっぱりサッカーでした。

大学のサッカー部やクラブチームに入ったことで、プレーを通じて少しずつ英語が聞き取れるようになり、だんだんと話せるようになっていきました。

本当に助けてもらったサッカー部のチームメイト達

また、現地の子どもたちへのサッカー指導を始めたことも大きかったと思います。やっぱり自分にはサッカーしかないんだ。

そんなときに大きなキャリアの転機が訪れます。
当時住んでいたホストファミリーの家に短期留学で訪れた日本人がいました。その人が働いていたのが、なんとあのナイキジャパン

帰国時にはナイキジャパンのサッカー部に招待してくださり、そのご縁でナイキの方々との繋がりができるようになりました。

その繋がりで、ナイキジャパンのサッカーイベントを企画・運営するエージェンシー会社を紹介していただき、帰国を決意。自分の社会人キャリアがスタートしていきます。

念願だったサッカー指導者の仕事。でも…

当時はナイキが中高のサッカー部に出向き、外国人サッカーコーチによる指導を無料で提供するような活動を行っていました。私が任されたのは、そのコーチの通訳兼アシスタントコーチ。

蓋を開けてみたら契約社員だったので、アルバイトで他のサッカー指導を掛け持ちしながらのスタートでしたが、好きな仕事ができるだけありがたい。

しかし、これまで自分がやってきた指導とは違い、1日限定の単発指導なので、初対面の中高生にサッカーを教え、コーチによるジョーク混じりの英語を通訳する仕事は、予想以上に大変!

英語も使いながらサッカー指導ができる。しかも、ナイキのもとで! …という夢のような仕事であったにも関わらず、いかに自分の考えが甘くアマチュアだったことを早々に思い知りました。

夢にまで見みた仕事をするしているキラキラしている自分と、あまりに何もできない現実の自分。

「あぁ、結局またダメなのか…」と心がまた折れかけます。どんだけ心が折れてるんだ自分。

それでも周囲の支えに全力で寄りかかりつつ、何とか全力で目の前の選手達にひたすらに向き合うこと4年。不思議と仕事が少しずつ楽しくなっていきました。

そんな折に突然の廃業。なんと会社を畳むことになり、「楽しい!」から一転、またもやプー太郎の一歩手前に。

せっかく仕事が楽しくなってきたころなのに…。人生うまくいかないね。

30歳手前。グラウンドからビジネスの世界へ

さて、そんな行くあてもなく彷徨っていた私に声をかけてくれたのが、サッカー選手の海外移籍を主に手がけるマネジメント会社です。

仕事内容は、契約Jリーガーのサポートや、海外移籍に伴うプロモーション動画の作成、次の契約候補の選手探しなど。

サッカーの指導者をしながら、新しいサッカーとの関わり方ができることに魅力を感じ、ジョインすることを決めました。

また、面白かったのが、その当時会社がとある少年サッカークラブと提携してビジネスを展開していたこともあり、指導者の派遣を行ったり、Jリーグのクラブと一緒に合宿を企画したりと、サッカースクール事業をどう伸ばすかを試行錯誤できたこと。

これまでの現場での経験とは全く違い、よりビジネスをどのように成長させるのかを考えることはめちゃくちゃ刺激的でした。気付けば、現場に出てサッカーの指導をするのと同じくらい、事業成長について考えることにどハマりしている自分の姿が。

サッカー指導もあるし、Jリーガーのマネジメント業務もあるし…といろいろ並行して仕事をするなかで、戸惑いのようなものが生まれてきました。私はこの先何年もずっとこの仕事を続けるつもりなのだろうか…?本当にそれで良いのかな…?

そんなとき、ナイキジャパンのサッカー部のメンバーから、「今、マーケティングのポジションの空きがあって、人を探している。英語もできるし、興味あるなら人事に連絡先伝えてみるけどどう?」というお誘いをもらいました。

まさかあのナイキで働けるチャンスがあるだなんて!!

電話をもらった当時、興奮して眠れなかったのを覚えています。自分が興味のあったことができる。しかも、ナイキで。夢のような話です。

当時は30歳手前。産休に入られる方のバックアップということで、期間限定の派遣社員でのお話でしたが、もうここまで来たら何とかなると思い、「ぜひやらせてください!」と二つ返事でOKしました。

これがまた、私の人生の大きな転機となりました。

10ヶ月の派遣社員での業務後、幸運にも正社員のポジションでのオファーをいただき、ブランド、リテール、デジタル、とマーケティングのなかで多くのポジションを担当させていただきました。

なかでもサッカー担当の際には、海外有名クラブとのお仕事をいくつも担当させていただきました。

選手を目の前にした時は子供の頃の少年に戻った感覚で、冷静を装いながらも、「おおおおおお!!!!かっこええええええー!」と心の中でワクワクが止まらなかったのを今でも鮮明に覚えています。

アスリートって本当にかっこいいんですよね。なれなかったけど。

たとえ夢が叶わなくても。

ナイキでマーケティングの仕事を始めてから8年が経とうとしています。

それは、若い頃に夢に描いていた自分とは全く違うものです。
正直、こんな未来があるなんて全く想像もしていませんでした。

人生何があるか、本当にわかりません。

夢に破れ、何度も挫折を経験し、乗り越えることはそれは決して簡単なことではなかったけれど、目の前のことに一生懸命に向き合うことで、新たな道が開け、自分の新たな目標が見つかりました。

今、僕の足元にサッカーボールは転がっていません。
でも、自分は不思議と夢を手放したとは思っていないのです。

15年間の社会人生活を経て気付いたのは、自分はサッカーのなかの、ゴールを決めてチームメイトと喜ぶ瞬間が1番好きだったということ。つまり、目の前の人の喜ぶ顔を見るのが好きで、その手段のひとつがサッカーだったということです。

たとえ目指していたものが叶わなくても、環境を変えて、チャンスに喰らいつき、とにかく行動しつづけることを辞めなかったことで、納得のいくキャリアを歩めていると考えています。

これをたまたま見ていただいた方、キャリアに悩まれている方、自分の選択に自信が持てない方にとって何かヒントになれば嬉しいです。


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