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日本という『国』は、とっくの疾うに終わっているから、あとは『日本人』として在り続けて、世界を刷新するってことです。
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学生の頃から、誠に拙いながら、私も長年に亘り、西洋古典音楽に触れ、表現してきました。
小澤征爾さんが、自らの人生を賭けた挑戦を『実験』と表されること、恐れながら、この私も実感として分かります。
実質的に100年にも満たない、近代日本の西洋古典音楽普及の歴史。その中にあって、日本人が、どこまで、日本人の感性で西洋古典音楽の美しさと本質を真に表現し得るか。まさに、その『実験』こそ、小澤征爾さんの精神に根ざしていた、行動と挑戦の動機だったのだろうと、私は確信し、共感しています。
私は誇りに思います。
日本人の血が湛えている稀有なる才能を。
世界に冠たる/凡ゆる秀逸な/最先端の/極々至高なる作風・作品を、日本人みずからのものとして蓄え、育み、仕上げて完成させ、日本人ならではの傑作として堂々と表現し得る、一連の傑出した、日本人の才能を。
小澤征爾さん。
ご自分の一身と人生すべてを以て、それら↑を体現してくださって、本当に有難うございました。
この際、天国で音楽三昧、どうかどうか、愉快にお過ごしくださいませ。
国・国家といったレヴェルで、日本(大日本帝国)は疾うの昔、1945年に滅びたんだな……と、私は思うようになりました。
日本という『国』は、もはや、とっくの疾うに終わっていると、私は考えることにしています。
太古の昔には、国などなかった。
ただ、人びとの営みがあった。
人びとは天と結われ地と結ばれて、天恵と地恵を賜って養われ、争うことも奪い合うこともなく、分かち合い助け合い、心身とも豊かに暮らしていた。
こんにち大小の島々として有る日本が、かつて繋がっていた大陸から切り離されて以降、およそ一万七千年の長きに亘って、私たちの遠い祖先、神代(かみよ)の人びとは、この大小の島々のうちにあって、まさしく楽園の民として大いに生きた。
神代=縄文の楽園。
いまだ、私たち日本人の身体には、いにしえの神代=縄文の血が流れている。
天と結われ地と結ばれて、天恵と地恵を賜って養われ、争うことも奪い合うこともなく、分かち合い助け合い、心身とも豊かに暮らした、遠い昔の魂の根源を備えている。誇らしいことだ。
加えて、さまざまに異なる外来文化文明との融合を繰り返しつつも、進取の氣象に富み、研究を怠らず、さらに発達した日本文明を発信し続けてきた先人に倣い、私たちも今後、穏やかで人間味あふれ、大自然に逆らわず、戦わず争わず、ユーモアと機知が溢れる人間=日本人〜新日本文明の担い手として、有りて有りたいものだと、つくづく思う。
国なんて、もう要らない。
品性において、感性において、右脳的直感において、真我=神と繋がる能力において、霊的対話の可能性において、もとより言霊を言語体系(日本語)の一部と認識できる日本人として生まれ、今もなお『神代(かみよ=いわゆる縄文)』の血を受け継いでいる日本人のひとりとして、私は、これからも、誇りある日本人であり続けたいと心から、そう思っています。
日本人であり続けることは、偽✡️超支配勢力とて、全く妨害できません。
「そうは問屋が卸さねえってやつよ」
「おととい来やがれ、この唐変木め」
国なんて、もう要らない。
国の体裁がどうであろうと、政府が超支配勢力によって、どれだけ制御されていようと、そこは、もういいかな。どうにもならないっしょ。
日本人として、日本人ならではの感性、神秘性、特異性、卓越した能力、平和を愛する氣心、適応能力、柔軟さ、etc、といった事ごとを大切に守ってゆくとの、自分勝手な決心。『ええじゃないか』的、身勝手さ。そこを、ひたすら追求してゆこうかな、と。
その点、芸術の持つ普遍性が、自分としては最も入りやすいかな🤗
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