北海道瀬棚郡利別村河島家のルーツを辿る(2)(白頭狸先生著『京都皇統と東京皇室の極秘関係』を読む・番外)
ただいま自家の歴史を辿るべく調査を続けておるところですが、その際参考にしていただいたのは丸山学先生の『先祖を千年、遡る─名字・戸籍・墓・家紋でわかるあなたのルーツ』(幻冬舎新書)です。
ご先祖様の歴史を辿ると言ってもどのように辿っていけば良いのか分からないという私のような初心者にも、わかりやすく具体的に解説してくださっていますので大変参考になります。
私自身もそうでしたが、若いころは、自分一人で生きているかのように思い、あるいは自分一人のことを考えることで精一杯で、自身の家の歴史を顧みる機会がなかなかないものと思います。
ですが、いま「私」という個が存在しているのは、父親と母親が存在していてくれたからであり、その父親と母親が存在しているのは、そのまた父親と母親がそれぞれ存在してくれていたからであり、そのそれぞれの父親と母親にも同じように両親が存在していたわけで、そのようにして私たちは遺伝子を受け継いで今を生きているということになります。
ですから、いま私が、あるいは皆さまが存在しているということは、そのような生命のリレーがあって初めて存在しているのであり、けっして自分一人だけで存在しているのではなく、多勢の支えがあってはじめて存在していると言えます。
とはいえ、自身の家の歴史を顧みることは、もしかしたら良い過去だけではなく、悪い過去もあることでしょうし、巷間伝わっている通史とは異なる秘(かく)された歴史もあることでしょうから、しっかりと事物を見定めていく必要があると思っております。
白頭狸先生は、これからの時代を「スメラの代」あるいは「ウカラヤカラの代」と名付けておられますが、いずれも古代の響きがあり、最も古い歴史を持つ国が最も新しい世を開くことを想起させてくれます。
中国古代史を著した司馬遷の『史記』によれば、秦王朝打倒の嚆矢とされる陳渉殿が「王侯将相いずくんぞ種有らんや(王侯や将軍・宰相になるのは家柄ではなく実力でなれる)」と豪語されておりましたが、私は陳渉殿には申し訳ないのですが、王侯将相には種があると思っておりますし、その種(職分)を否定し、誰もが「自由」で「平等」に自らの欲する種になることができるとしたところに日本の戦後民主主義の混迷と混乱の元があると思っております。
ですが白頭狸先生こと南光院爾應法師様の中観流によれば物事には必ず二面性があるということですから、戦後民主主義にも悪い部分と良い部分の二面性があり、悪い部分は日本の伝統的な価値観や家族制度いわゆる「日本的なもの」を破壊したところですが、良い部分はいちどあらゆる「日本的なもの」を否定することで、じつは私たちはその「日本的なもの」によって多大なる恩恵を受けており、日本が「日本的なもの」の価値を再発見することが、個人においては人生の意義を取り戻し、世界においては民主主義に代わる新たな時代すなわち「スメラの代」の社会モデルを提示することになると思っております。
頓首謹言