「信玄堤」の築堤思想と國體経略(白頭狸先生著「京都皇統と東京皇室の極秘関係」を読む2)
第一章 新文書の発見
前回に続き白頭狸先生の旧著『京都皇統と東京皇室の極秘関係』の紹介となります。
今回新たに発見された「周蔵手記」の別紙記載は大きく分けると二つの内容となっており、
1.山村御殿における出来事
2.和歌山市の紀州徳川家での出来事
についてのこととなります。
その前に個人的な話となりますが、子供の頃より歴史好きで、かと言って多くの本を読み漁るというよりは、もっぱら母親に買ってもらった『まんが日本の歴史』を何度も繰り返し隅から隅まで読んでいるような子供でございました。
私めが読んでいた『まんが日本の歴史』を監修していたのが樋口清之博士・國學院大學名誉教授で、樋口博士と言えば『梅干しと日本刀』の著書が有名かと思いますが、その中で「信玄堤」の話が出ており大変印象に残っております。
この著書が出版されたのが調べると1976年(昭和51年)となっており、当時はすでに反日・侮日史観が横行しており、前近代的なものはすべて非科学的、非合理なものであり、西洋に比べて劣っているのが日本文化であるというような風潮であったようで、それに対して樋口清之博士は憤りを感じたと思われ、日本の歴史に遺されている日本人の伝統や知恵は、一見すると非科学的で、非合理に見えるかも知れないが、深く研究すると極めて科学的であり、合理的であることをさまざまな例を挙げて解説しておりました。
その代表的な例として挙げられていたのが「信玄堤」で、西洋流の堤防は水のエネルギー総量を計算して、それに抵抗し得るだけの高くて分厚い堤防を築くことを発想しますが、「信玄堤」の築堤思想はそうではなく、まず発想の前提として、自然のエネルギーというものは人知の及ばぬ量り知れないものであるという思想があり、そのエネルギーに逆らうことなく、エネルギーの性質を見究めて、その性質を生かした形で氾濫を防ぐように築堤されてあるとのことでした。
具体的には、まず扇状地で奔放に振る舞う御勅使川(みだいがわ)の流れを一方向に固定し、その主流を天然の防壁である竜王の赤石にぶつけることでエネルギーを「対消滅」させ、ついで「将棋頭(しょうぎがしら)」と呼ばれる凸形の石組を築くことで水流のエネルギーを二手に割って分散させて、釜無川(かまなしがわ)と合流させる設計となっております。さらにその先には堤防にあえていくつもの開口部を設けて周辺の田畑に誘導することで、さらに水流を分散させて、水勢を安定化させるよう設計されてあります。
このことを可能にするには自然のエネルギーの性質を見究めるための鋭い観察眼が必要であり、このような観察眼を持っていた日本文化は西洋的なアプローチとは異なるが、合理的で、科学的な思想を持っていたというのが樋口博士の説くところでございます。
要するに古いものは何でも非科学的、非合理と極めつけて、そこに潜んでいる科学性、合理性というものを見究めようとしない姿勢こそ非科学的、非合理であるとして批判されたわけですが、それを批判だけに終始せず、実態をもって証明されたのが『梅干しと日本刀』となります。
ここまで読んで白頭狸先生の「國體史観」を学んでおられる方には、この築堤思想の根源がウバイド文化にあることはお分かりになるかと思うのですが、そのウバイド文化と精神性において共振共鳴した縄文日本人の協同作業にとって現在にまで続く日本文化が形成されたことになります。
同時に、私めが感じることは、この築堤思想と同じ思想がワンワールド國體の國體経略の基本思想となっていると愚考いたしました。
歴史の流れもまた自然の量り知れない流れであり、歴史の流れを一つの大きな水の流れととらえるならば、その流れに逆らうことなく、時に岩壁や石組によって水流を「対消滅」させ、時にいくつかの開口部を設けて分流させて、総体として歴史の水勢の安定性を維持することが國體経略の基本思想ではないかと愚考するところでございます。堤防を築くためには水の性質を見究める必要がございますが、歴史的な水路設計をおこなうためには歴史を織り成す人間の性質性情というものを見究める必要があり、築堤技術と國體経略の双方に共通する鋭い自然観察眼というものを観じる次第です。
そして世界の革命史において、きわめて少ない被害で近代化を成し遂げた明治維新こそ、ワンワールド國體の國體経略いわば歴史の水路設計が見事に結実した一つであり、その工程において重要な役割を果たしたのが本書の表題となっている江戸幕末に創設された京都皇統(國體天皇)であったのです。
と、またもや長くなりましたので次回に続きます。
頓首謹言