なぜ?に答える声
編曲を教えている。
こう話すと、座学で理論でも勉強しているのかと思われがちだが、レッスンの中身は対話と声を出す時間、身体を動かす時間だ。
楽曲は、完成されたものではあり得ない。
どんなに練度の高い曲も、生身のパフォーマーや器を介することではじめて曲という概念に昇華する。
最後に器を差し出す人間が、曲を曲たらしめるのだ。
それなのに、どうしてわたしたちは他人の肉体や声によって完成された曲を、まるで"正解"かのように扱い、なぞったり模倣して喜んだりしてしまうのだろう。
人それぞれの、表現の形があるはずなのだ。
同じ実感を抱くひとが、年を追うごとに、まわりに集まってくる。
対話によって、その人にとっての"曲"のコアが明らかになっていく。
どう感じるのか、どうしたいのか、なぜそうなのか、
問いを重ねていくことで、何もなかったところに一つずつだが色がついていく。
とある生徒さんが、歌詞を分析する段で、数行分の歌詞を、丸々飛ばして書き写してきた。
理由を尋ねてみると、あまりにも当たり前のことすぎて、この部分を敢えて歌う意味がない、と感じたらしい。
シナトラや美空ひばりが歌うならわかるけれど、今のわたしの身の丈には合わない、と彼女は語った。
結局その空白には、自作の英詞を当てはめることになった。
そうしてどんどん、数多のひとが歌っているはずの曲が、彼女しか歌えない曲になっていく。
これが然るべき、曲とのパートナーシップだ。
今の自分を受け入れるために、大胆な取捨選択をする。その決断に敬意を表する。
幹を守るために枝葉を捨てる選択を、わたしたちは日々、どれだけできているのだろう。
なぜその曲と出会ったのか。
曲を遠巻きに眺めて、手元に引き寄せて、また少し遠くへやって、近づいて。
そうして豊かにゆりかごを揺らすことで浮かび上がるのは、結局のところ他の誰でもない、理想とは程遠い、今の自分自身なのだ。
どうしていま、この曲に巡り合ったのか?
自分だけが、答えを知っている。