弾き語りの歳時記〜魔法使いと錬金術師
今日は田上碧ソロ公演を聴きに三河島にある「屋上」という会場へ。
三河島と言えば荒川区だ。
荒川区というと23区の中ではけっこう面積が小さい。
最も小さいのは台東区で10.11平方キロメートル、その次が荒川区で10.16平方キロメートル、どちらもだいたい同じぐらいと言ってもいい面積差だろう。
このぐらいの広さだとチャリンコに5分も乗ればもう違う区に入るという印象だ。
この2つの区、面積に大きな差はないが、歴史的建造物や名所という意味ではかなりの差がある。台東区は世界的と言っていい観光地がてんこ盛りの区だが、荒川区というのは日暮里という首都と遊園地はあるが、その他は目立つランドマークがなかなかないので、あまり行ったことがないという人が多いのではないかと思う。
ところが!
荒川区は小説家吉村昭の生誕の地なのだ!
吉村昭ファンの自分にとっては、まさに聖地である。
実際荒川区を吉村昭の聖地めぐりの観光地とするべく「吉村昭記念文学館」というプチ博物館が荒川区によって設置されている。
吉村昭好きにとっては貴重な資料がてんこ盛りのすばらしい場所だ。
せっかくなのでここで吉村昭の推し活もしておきたい。
「吉村昭って知らないんですけど何から読んだらいいんですか?」というのをよく聞かれる。
これはわりと簡単だ。
入門編であり、上級者でも感動する普遍的名作はかなりしぼられる。
ちなみに吉村昭は例外的ないくつかの作品と初期の作品を除き、ほとんどの代表作はすべてドキュメンタリー=実話である。
少しだけだが紹介したい。
『羆嵐』・・・開拓時代の北海道。獰猛な熊に食べられてしまう村人たち。そして熊を退治するマタギを雇うため山を越えてマタギに会いに行く村人。そして熊と対峙したマタギの精神状態とは。最もわかりやすい1作。
『戦艦武蔵』・・・文字通りの吉村昭の代表作。戦艦武蔵という巨大な象徴のために細かい死を重ねる関係者たちの群像劇。クライマックスの武蔵戦う!沈む!みたいな所はわりとラストちょっとだけ。あとはそのメチャクチャ長い建造期間中の規則違反、とかちょっとした事故、とか武蔵を米軍から見えなくするための棕櫚縄づくりなどネチネチとしたかわいそうな日々がクローズアップされ続ける。こういう無名な人たちの「どう考えても意味の無さそうな死」を吉村昭は生涯をかけて徹底的に描写した。歴史はそういう人たちの積み重ねによって成り立っている。それを完璧に描写することで、彼らの魂を救うことにもなっているのだ!この作品が気に入った人は次は是非『零式戦闘機』を読んでほしい。
『高熱隧道』・・・黒部ダム建設時、これまたかわいそうな死に方をしてしまった人たちの記録である。ダイナマイトの暴発、雪崩、それにもめげず、完成に向けひたむきに戦い、作業を続ける人々。感動の巨編だ。
『漂流』・・・江戸時代は、紀伊國屋文左衛門のような貿易商が関東から関西へ商船で荷を運んでいた。江戸時代の船旅は現代とはまるで違う。太平洋上で台風がきたら「ハイ、さようなら」である。そのような時の漂流記録がけっこう残っているらしく、この作品のような江戸時代漂流ものが吉村昭には何作もあり、その代表作がこちらの『漂流』である。
荒波にのみこまれ、命からがら無人島に到着した乗組員たち。食料の無い中、数年を無人島ですごすのだが、その壮絶なサバイバルライフはこれが実話なのかと息をのむ展開の連続で、かなり興奮する。
『破獄』・・・4度の脱獄をした白鳥由栄のドキュメンタリー。その面白さからテレビドラマにもなっている。吉村昭の中では比較的ポップな作品だ。
というわけで吉村昭の紹介はこれぐらいにして、荒川区に話しをもどしたい。
吉村昭以外に何か荒川区にまつわる話しはないのか、というとかすかにある。
昔ランバンサリというジャワガムランのグループに所属していたのだが、ランバンサリの定期公演はいつも日暮里サニーホールという日暮里のホールなのだ。フル編成のガムランでワヤンの公演がしっかり見れるという日本では貴重な公演で、自分も曲によって色々楽器を変えながら演奏をしていた。
あと荒川区が何かインドネシアとつながりがあるのかどうかはわからないのだが、KPA3というアンクルン・グループの来日公演がサンパール荒川という町屋にある荒川区唯一の大箱でおこなわれたことがあり、それを聴きに行ったことがある。
KPA3は1980年に設立したインドネシアのトップ・アンクルン楽団。だそうで、説明文を読むと「アンクルンを文化遺産および国家アイデンティティとして推進し豊かな世界の文化に貢献するミッションを持つ」らしい。おそらくそれほど広くはないであろう「アンクルン業界」の中のトップグループというわけだ。
公演の雰囲気は典型的な、アメリカやヨーロッパの政府や大使館関連のイベントでおこなわれるそれであった。エキゾチックな民族芸能を、現地の人がしっかりと民族衣装を着て、偉い人が「ワンダフル〜」と言って拍手する、というタイプのものだ。実際インドネシア大使館とインドネシア観光庁の後援による公演で、曲目はベートーヴェンの交響曲、津軽海峡冬景色、ジブリメドレーという力の抜けるプログラムではあったが、巨大アンクルンアンサンブルの迫力はやはりすさまじく、クオリティも頗る高くて楽しめた。上記のような曲の他に、スマトラとかスンダの「ガチ」の民族舞踊コーナーもあり、それはこういうの見たかったんだよ〜、と膝をたたいてしまう素晴らしい内容だった。
というわけでこのようなアンクルンのちゃんとした合奏やジャワとバリ島以外の芸能はなかなか聴けるものではない、という意味でとても収穫のある公演だった。
ところが!
この公演に足を運んだのはインドネシアの芸能に触れたいぞ〜という動機だけではないのだ。むしろそれはサブだ。
メインはジャワ在住の盟友のシンデン(ガムランの女性歌手)Aさんがこの来日公演に加わっていたのだ!
結局終演後、たしか自分がいそいでいたからか、Aさんとは会えずじまいだったのだが、Facebookで歌声をひさびさに聴いた喜びを伝えることはできた。
Aさんが、ジャワに渡ってもうかなり経つ。テレビ等にもよく出演してるようで珍しい日本人歌手として注目されているらしい。
自分的にも日本人でマジすげぇなこの人、と思った歌手は田上さん以外だとこのAさんである。
昔同じガムラングループに所属していた時には毎回練習で聴いていたわけだが、声が口とか喉から出てない(ように聴こえる)というのがとにかく印象的だった。
おでこからビームみたいに声が出ていたのだ。それで「なんか声がビームみたいに出てるなぁ」と思っていたら声が正面の壁とはるか後方の壁からスピーカーがあるかのように聴こえてくる。
とにかく体から全然離れた所から聴こえてくるのが不思議だった。
そしてAさんは毒舌家でヘビースモーカーだった。つまり毒舌と煙を常に吐いていたのである。
そのキャラと天上の声という乖離が「ひと昔前の天才」みたいだった。
練習後居酒屋等に行って延々とAさんが他の人の悪口を言うのを聞く、というのが後輩としての自分に課せられた仕事のようになっていた。
なのでおそらく今は「ったくインドネシア人はこれだから!」とインドネシアにいながらインドネシアの人に思いっきり言ったりしてるのではないか。今はまるっきり違う性格になっているかもしれないのでわからないが。
日本にはもちろん「ジャワガムランの歌手」という職業は存在しないので、自分と共演していた頃はたしかOLをバリバリやっていたと思う。
だが、明るい現実的な毒舌家だからだろうか、あまりくよくよ悩んだり、突然変なスイッチが入って自己啓発的なことを言い出したりすることもなく、その後とても自然な流れでジャワで歌手になっていた。
歌に選ばれる人、音楽に選ばれる人、というのを田上さんをはじめ今まで何人も見てきたが、Aさんもそういう感じの人だった。
というような荒川区の思い出をかすかにたずさえながら、今日の会場「屋上」へと向かった。
三河島というのは「ほぼ日暮里」というエリアであり、完全なる三河島エリアというのはけっこうせまい。
なので三河島駅で降りるというのは在住者以外にとってはけっこうレアな体験だ。
JR常磐線に三河島という駅があるが、自分は新三河島駅の方で降りた。ここは降りたことがないかもしれない。常磐線の三河島駅というのもかなりシブいが、京成線新三河島駅というのも負けず劣らずシブいのではないだろうか。
また、JR三河島駅の方はそうでもないが、新三河島駅の方は降りてすぐの道が東西南北のラインに対して斜めに走っている。
こういう所は駅を降りた瞬間がわかりにくい。
有名なところでは、神田駅周辺だ。
神田駅周辺も大きい道路と碁盤目状の小道が、東西南北に対してそれぞれ違う方向に斜めになっていて降りた瞬間の位置把握が比較的難しい。
そしてこの今日の会場は碁盤目が東東京風に入り組んだ中にある。
それがまた森の中を分け入っていくようで心地よい。
そして会場の屋上にたどりつくと、入口がメルヘンチックな入口だ。こんなところにあり得ない、というかたちでカフェが住宅街の中に出現している。
墨田区の京島でも似た状況でカフェが住宅街に組み込まれているのだが、京島はすでにそういう所として認識されており、訪れる方も慣れている。
だがこういう「シブい」場所ではおそらくこの周辺ではこういう店はここ1軒であろう。
童話では森の中で、突拍子もなく煙が煙突から出てる木造の家が出てきて、中でスープとかふるまわれたりするのだが、まさにそういう不思議なオーラをただよわせている。
そういえば池尻大橋のサモワールの入り口もメルヘンチックな入口だった。
他には大久保の「ひかりのうま」もこれに近い「突然メルヘンチック」さがあった。入口というのはライヴ会場にとって案外重要なのかもしれない。
住所を見ていたのでわかっていたがこの会場は「屋上」という名前だが、バリバリ地面の上の1階である。
入るとバーカウンターがあり、頗る雰囲気がよい。
この住宅街という森の中でこれから魔法をみせる魔法使い田上さんがベンベンベ~ンと調弦する姿もすぐに目視で確認できた。
そしてライヴはわりとスッと始まった。
PAは無しのいわゆる生音ライヴだ。
さきほどAさんが歌っている時はおでこからビームが出ていて体から離れた所から音がする、と表現した。
田上さんの場合も体から離れた所から音がするのは共通しているが、発せられた声が一回背中側をまわるのが、特徴だ。
背中から出た音が上へいき、その後天井に当たって垂直に曲がり、客席側にビヨ~ンと到達する。
上に行って曲がる気流みたいな流れをイメージしてもらうとわかりやすいかもしれない。
だが、このぐらい小さめの会場だと客席の後ろの壁に到達する速度がそもそも速く会場全体が鳴ってるなぁという感じになる。
お客さんからするとどこから音が鳴っているんだろう、という印象があると思う。
そのあたりのどこからともなく音が聴こえてくる、という印象は、禅の公案「隻手の声」を思わせる。
「隻手の声」とは、パン!と手をあわせると音がし、片手だけではパン!という音は出ないよ、という公案で、そりゃそうだという当たり前のお話しなのだ。
だが、禅ではそのパン!という音は「元々宇宙に存在していて、それが手を叩くという行為をトリガーにして宇宙のどこかからやってくる」と考える。
つまりそれまで無だった空間に、宇宙から音を呼んでくるのだ。
田上さんの歌もそのような宇宙のどこかから音を呼んでくる魔法を使っているような印象がある。
歌の魔法を使う魔法使いと言われる所以だ。
また、同じ曲の中で同じメロディーをオクターヴ上とオクターヴ下で歌うという「技」も展開。これにはグッときた。
そもそも田上さんの場合は、ファルセットのチェンジポイントがわからないぐらい通常歌唱声域が広い。
普通に曲を歌える声がまず2オクターヴはゆうにあり、特殊発声や飛び道具的な声であれば3オクターブも越えている。計測していないが4オクターブも越えているかもしれない。
特殊な訓練をへていない人の場合、だいたい1オクターブと2~3度ぐらい、歌手として活動している人でも1オクターブと5度歌えれば充分声域が広い人、という認識だからこれはすごい。
そしてファルセットが地声(チェストヴォイス)と同じぐらいの強度がある。これは優れた歌手の重要な資質で訓練して獲得できるものではない。
その強度を十分に感じる生音生声によるライヴだった。
さて、フィジカル面に続いて、田上さんのアーティスト=作家としてのコンセプトについても触れていきたい。
こちらはさきほどの魔法使いに対して田上碧の錬金術師としての側面となる。
このライヴシリーズはなんと1年を通じて毎月1回、合計12回おこなうという連作作品だった。
ここで「毎月やっていたライヴ」に連作作品という表現を用いたのにはもちろん理由がある。
音楽業界には昔から「箱バン」という風習・習俗がある。
「箱バン」とは箱=会場が雇っているダンス伴奏およびBGM演奏バンドの略称である。
これは実は相当歴史が古い。
王や貴族のおかかえではない、舞踊を楽しむ商業施設での舞踊の伴奏を楽団が生演奏する、という意味でヨハン・シュトラウスのワルツ音楽などを演奏した当時のウィーンの団体まで含めると200年近い歴史があるのではないか。
いや、ヨーロッパでは居酒屋文化というのはロマン派時代より前からあるはずなので、その居酒屋楽団も含めると500年以上か。
その後最も人々の印象に残っている箱バンと言えばやはり1920~1960年代のアメリカのジャズのダンス音楽だろう。
ダンスホール、レストランでのダンス伴奏のバンドから多くの創造的で芸術的なジャズ演奏家が生まれたことは周知の通りである。
アメリカでは現在でもジャズやカントリー、ブルースの文字通りの箱バン文化が継承されている。
日本ではどうか。残念ながらバブル崩壊の頃をもってそれまでの形態での箱バンはほぼ無くなってしまった。
終戦後から1980年代まで、まずは米軍基地本体および米軍基地エリア周辺の飲食店で箱バンがさかんになり、その後キャバレーダンスブームにのってジャズミュージシャンがキャバレーで固定給の箱バンとなった。
キャバレーの最盛期には日本在住の優秀なフィリピン人ミュージシャンもたくさん出演していた。
この頃のキャバレーと箱バンの雰囲気は、結成当初実際に箱バンをしていて後にテレビスターとなった「ハナ肇とクレージーキャッツ」の映画「無責任シリーズ」や森繁久弥の「社長シリーズ」で垣間見るとこができるので是非参照されたい。
すたれたとはいえ、現在も音楽系レストランで箱バンは現存していたり、ジャズ専門ライヴハウスでは毎月何回も出演しているお店のお気に入りのミュージシャンによる固定的ライヴがあったりするが、昭和の頃の箱バンとは雰囲気の違うものとなっている。
さて、箱バンの説明が長くなってしまったが、田上さんのこのライヴシリーズはそれとは真逆である。
音楽家業界でも会場を「箱借り」して特定の作曲家をテーマとした演奏会をおこなう、というような「企画モノの演奏会」というジャンルがある。
どちらかといえばそちらの方に近い。ただ近いがまるで違う。
キャバレーのダンス音楽に比べれば圧倒的に近いが、形而上学的な意味においては田上さんのこのシリーズはそういった「企画モノの演奏会」とはまったく違う。
もう少し詳しくみてみよう。
田上さんのこのライヴシリーズは、元々お店の方が設定してやるような固定ライヴ方式を、連作作品としておこなうという前代未聞の「作品」だった。
つまりミクロでみた場合、1回1回が「とっても楽しいシンガーソングライターの弾き語りライヴ」で、マクロの視点から見ると同じ会場で同じ演奏家が12ケ月ずっと演奏し続けるというミクロとマクロのフラクタル構造を含んだ「空間インスタレーション作品」なのである。
現代美術業界のインスタレーション作品では、豊島美術館にある内藤礼『母型』のように展示中、その時々によって展示物の様態がなんか色々変わる、という作品がしばしばある。
そういうのを人間の演奏で12ケ月やっている、みたいにイメージしてもらうとよいだろう。
あるいは「空間インスタレーション」という意味では、梱包してその対象物の存在の意味と外見をともにメタモルフォーゼさせるクリスト&ジャンヌ=クロードに近いのかもしれない。
クリスト&ジャンヌ=クロードも梱包することによって世界の見方を変えた。
田上さんもライヴを芸術という包み紙で梱包することによって作品化することに成功しているのである。
一見通常のライヴにしか見えない演奏活動を同時に芸術作品にしてしまう。
これが田上碧の錬金術師としての側面である。
人々を驚かせるような魔法を使って、世界の見方を変える錬金術師、それが田上碧なのである。