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”黒人侍”弥助と甲州征伐と人魚の噂

先の『家忠日記』の弥助の身長に関する話では、六尺二分という数字が目撃情報などではなくどこか別の物語の登場人物から持ってきた値だったのではないかということを書きました。
今回は『家忠日記』の弥助に関する記述について、日記内の他の記載と比較しながらさらに踏み込んで整理してみます。

なお、我々がよく参照する『家忠日記』は国立国会図書館デジタルコレクションからアクセスできる1897年に坪井九馬三により出版された文科大学史誌叢書版であり、松平家忠が記した原本とは少々異なることがあります。そこで本noteでは、東京大学史料編纂所にて公開されている論文、岩沢愿彦『家忠日記の原本について』(1967)及び 駒澤大学 電子貴重書庫にて公開されている『家忠日記』の原本を追加で参照しています。なお、駒澤大学の方は「すべての画像・データの二次利用は、原則許可されていません。」とのことですのでこの記事では該当箇所へのリンクのみ貼り付けます。興味があればリンク先ご参照ください。

『家忠日記』と挿絵

『家忠日記』といえば上記のnoteにも出てきた人魚など、様々な挿絵が描かれていることが知られています。一方でこれらの挿絵は描かれた付近の日記本文とは無関係な内容であることが多いこともまた知られています。

『家忠日記の原本について』では、「しかしこれらの略画は、必しもその部分の日記の記事と同時に描かれたものではない。」、「要するにこれらの略画には家忠の自筆が存在すると同時に、後世のいはゆる落書きの類もまた混在するもとのいふべきであらう。」とされています。つまり日記本文が書かれたよりも後になって空いたスペースを埋めるように描かれた挿絵もあり、また家忠以外の人物が描いた挿絵もありうると指摘されています。以下、少し個別に見てみます。

『家忠日記』と弁慶

『家忠日記』には、偶然?弥助と同じ背丈である弁慶と思われる挿絵も下の通り残っています。

『家忠日記』天正十四年二月付近(国立国会図書館デジタルコレクション
駒澤大学 電子貴重書庫の原本はこちら

これが何の絵であるのか『家忠日記』には書かれていませんが、これを見ると五条橋での牛若丸と弁慶のシーンを思い浮かべることが多いと思います。このシンプルな絵で我々も16世紀の松平家忠と同じ物語の同じシーンを思い浮かべることができるというのは実は結構すごいことなのかもしれません。
ちなみに五条橋での牛若丸と弁慶の話は『義経記』や幸若舞にもない比較的成立が新しいエピソードとのこと。また、物語の舞台としてイメージされる立派な五条大橋が秀吉の命で作られるのは天正十八年のことであり、この日記の天正十四年時点の五条橋は鴨川内の中島を挟んで二つに分かれた橋でした。その時点の五条橋を舞台とした絵という意味でも、弁慶の物語の成立を考えるうえで興味深い挿絵かも知れません。

話がそれてしまいましたが、「これが何の絵であるのか『家忠日記』には書かれていません」。同じページに書かれているのは、毎日のように天正地震の余震(なへ)があったということと、雨が降ったか、降らなければ普請をしたかということだけで、弁慶の話に繋がるようなことは何一つ書かれていません。つまり『家忠日記』の挿絵には、描かれている日時周辺の日記の内容とは無関係なものもあるということがわかります。
また、駒澤大学の原本をみるとわかりやすいですが、周辺の文字と重なってしまわないようにうまく避けて絵を描いていることがわかります。この牛若丸と弁慶の挿絵の場合、原本では一月二十六日から二月二日までにまたがっていますが、月初めの「二月大」と二月三日の「雨降」との間に収まるように牛若丸を描いている様子から、絵が描かれたのは少なくとも二月三日の記事を書いて余白が確定した後であろうと考えられます。つまり挿絵はその場所の日記本文よりも後で書かれることがある、ということが確認できます。

『家忠日記』と人魚

『家忠日記』の挿絵は上記の弁慶のような絵だけのもののほかに、文字による説明が付いている物があり、人魚の挿絵が一つの例になります。

『家忠日記』天正九年四月付近(国立国会図書館デジタルコレクション
駒澤大学 電子貴重書庫の原本はこちら

90度回転させてもそのまま収まりそうなのに文字が横向きになっていますが、これはあまり大きな余白のない原本の方で用紙の下の方に横向きに書いてあるのにこちらも向きだけ合わせたからではないかと思われます。
人魚の絵に付いた説明文は原本の方は難易度が高いので文科大学史誌叢書版を見ると、「正月廿日ニかん てんちへあかり候 安土ニ而食人をくい候 聲ハとのこほしと鳴候 せいハ六尺二分名ハ 人魚云」と書かれています。「タケハ六尺二分名ハ弥助ト云」で終わる弥助の説明と驚くほど同じ表現で終わる説明というのはさておき、正月二十日の安土での話と明記されていることがポイント。同じページの日記本文のほうは四月の家忠の居城である三河の深溝での出来事が書かれていますので、挿絵の出来事があった日時・場所と、日記本文の日時・場所とが食い違っていることになります。
『家忠日記の原本について』では、「天正九年四月二十日条の下部に描かれた人魚の図には、図と日付との間に連絡の符号があり、確かに二十日乃至其直後描かれたものと認められる。」とされています。この通りであるとすると、家忠は人魚の噂話を聞いたあと、噂の出来事があった正月付近ではなく噂を聞いた四月付近の日記の余白に噂の内容を記入したことになります。(岩沢先生は「二十日乃至其直後描かれた」とされていますが、個人的には日記本文の文字の避け方から二十四日以降に書かれたものだと思います。)

つまり、家忠日記に後から記入されたと思われる噂話については、家忠がその噂話を聞いた日付付近に記載されており、その噂話の出来事があった日付付近ではない(ことがある)ということになります。
なお、家忠は同年三月の高天神城攻めに参加していますので、同じ戦いに参加していた織田家中の誰かを経由してこの安土での噂話が普段は三河にいる家忠にまで伝わったのかも知れません。

『家忠日記』と弥助(弥介)

『家忠日記』における弥助

次いで本題の『家忠日記』における弥助の件です。

『家忠日記』天正十年四月付近(国立国会図書館デジタルコレクション
駒澤大学 電子貴重書庫の原本はこちら

この弥助に関する記述内容を都合上4つの部分に分けて書き下すと以下の通りです。「①上様御ふち大うす進上申候 ②くろ男御つれ候 ③身はすミノコトクタケハ六尺二分 ④名は弥助と云」。この記述がある四月十九日時点で上様(信長)は甲州征伐からの帰路、安土への途上ですので、この記述は甲州征伐からの帰路における弥助の目撃情報とされることが多いです。

この記述内容の各部分について個別に見てみます。
まず①④については見てわかる情報ではありませんので、目撃情報ではなく誰かから聞いた噂話のようなものである可能性が高いです。(当日目撃した弥助本人から聞いた可能性もないわけではないですが、弥助は信長との面会時点の記録でも”sabia mediocremente a lingoa de Iapaõ”=「日本の言葉を多少は知っている」、のレベルであって日本語を話したという記録もありませんので踏み込んだ会話は難しいでしょう。)
②については、ここだけを見れば弥助を連れた上様(信長)を見た、と考えることは一応は可能です。ただしここを目撃情報と考えると、十八日の池鯉鮒(知立)まで毎日信長がどこまで来たか記録している家忠が、弥助を連れた信長を見かけた記述についてだけ信長を見かけた場所を記録していないということになり極めて不自然です。つまりここの記述は、「信長が弥助を連れている」という話を聞いただけで、この日に家忠が実際に見かけたわけではないと考える方が自然です。
③については肌の色はともかく、身長に関しては他の物語の登場人物の数字から持ってきたのではないかという話を前のnoteに書きました。つまり、この部分についても目撃情報とするにはかなり怪しい記述です。
以上、『家忠日記』の記載内容を個別に追いかけていくと、確実に目撃情報と思える内容は無く、伝聞情報を疑われる内容ばかりであることがわかります。

家忠と信長の足跡

上記②と関連して、そもそも家忠はいつならば信長を目撃できたのかについて整理してみます。下の図は、『家忠日記』及び『信長公記』における甲州征伐からの帰路の家忠及び信長の足跡です(赤が信長、青が家忠)。

信長及び家忠の甲州征伐帰路の足取り、赤が信長、青が家忠

甲州征伐においては家忠は二月十七日に深溝から出陣、駿河の田中城等で戦った後、江尻の穴山梅雪の寝返り後は甲斐に向かい、三月十一日には甲府にて天目山の戦いの結果を聞いています。その後三月十九日になって信長が三河経由で帰陣予定であることを聞き、三月二十三日には本栖に入って周辺で信長をもてなすための準備を行います。四月三日に甲府に入った信長が四月十一日に右左口から本栖に向かう際には三河衆一同で警備を行った後、家忠は急ぎ三河に戻り、四月十四日に居城の深溝に到着します。
深溝に戻った家忠が何をしていたのか日記には記録されていませんが、信長がどこまで御成したかを毎日記録していますので、信長一行通過のための準備をしていたのでしょう。四月十八日には信長は深溝よりも西の池鯉鮒(知立)に到着していますので、家忠の深溝はこの日に通過したものと思われます。『家忠日記』では信長が池鯉鮒に御成したとだけ書かれており深溝を通過したような話は書かれていませんが、この日に会下(おそらく近所の本光寺)に行ったと記録していますので信長が深溝を無事通過し、一仕事終えて一服といったところでしょうか。以降は仕事と関わらないので興味が無くなったのか、『家忠日記』での信長の足取りはこの日の池鯉鮒で終わっています。

以上の通り、甲州征伐にて家忠が信長を目撃できた可能性があるのは右左口付近にて三河衆で信長の警護を行った四月十一日と、信長が家忠の居城である深溝付近を通過した四月十八日のみであり、他日に家忠が信長を目撃することはありえません。つまり四月十九日の信長が弥助を連れているという記述は、当日に家忠が経験したことを記録したという意味での「日記」ではありえず、他の日の出来事をたまたまここに書いたか、あるいは単なる伝聞情報ということになります。

『家忠日記』原本における記載形式

もう少し深追いするために、『家忠日記』原本における弥助の記載を見てみます。以下説明のため、公開されている『家忠日記の原本について』にあるフィルタの掛けられた該当箇所を引用します。文字を読めるバージョンはこちらの駒澤大学 電子貴重書庫の物を参照ください。

『家忠日記』原本の弥助(弥介)の記述(岩沢愿彦『家忠日記の原本について』より)

文章の内容ではなく書かれ方という観点で見ると、弥助(ちなみに文科大学史誌叢書版とは異なり、原本では弥介です)に関する記述は三つ特徴があります。
一つ目は文字のサイズ。原本の方を見ると、同じページ内の他の記述に比べて弥助に関する記述は文字が小さいことが確認できます。
二つ目は文の書き始めの場所。周辺の十八日「池鯉鮒」、十九日「雨降」、二十一日「会下」はそれぞれ日付と干支の直下から書き始められていますが、弥助に関する記述に関してのみ日付や干支と文章との間に空白があります。
三つめは行間。弥助に関する記述は上部と比べて下部の方が行間が広がっており、特に最終行の下部は左の二十一日のエリアにはみ出しているように見えます。

これらのうち三つ目の特徴の原因はおそらく単純で、上記弁慶の挿絵の場合と同じように、弥助に関する記述は二十一日の「會下へ参候」を書いた後にこの文字を避けるように書き込んだため、下ほど余白が広かったためと思われます。
とすると、他二つの特徴の原因もおそらく同じで、弥助に関する記述は日記本文ではなく後から余白に書き込んだ追加的な情報であるため、日付から少し離して小さめの字で書いたものと思われます。つまり約一年前の上記人魚に関する記述と同じ扱い。

『家忠日記の原本について』では、弥助に関する記述については「記載形式から見て、その各々の日にかかる記事とは解しがたい。内容から考へても、特別の繁日を必要としないその当時の見聞を記したものと見るべきであろう。」としています。この考察について、文科大学史誌叢書版の『家忠日記』しか見ていなかった頃は単に数日ずれているかもしれないといった話かと考えていたのですが、原本の『家忠日記』を見る限り、「特別の繁日を必要としないその当時の見聞」=当時の噂話と考える方がよさそうです。
つまり家忠は甲州征伐に同行していた弥助を見かけたのではなく、甲州征伐の頃に聞いた噂話として弥助の話を記録した、ということだと考えられます。

織田家の者も参加していた高天神城の戦いが終わった後、安土での噂話である人魚の話を記録する。織田家の者も参加していた甲州征伐が終わった後、弥助の話を記録する。このように並べると、弥助の話も畿内における噂話が織田家の者から伝わったものであったということかも知れません。そういえば「殿」の話も都での噂話でしたし、弥助を直接見かけたことがある人は少なかったのかも知れません。

まとめ

『家忠日記』天正十年四月十九日付近に記録されている弥助に関する記録については、家忠が甲州征伐帰途の信長に連れられた弥助を見かけた目撃情報とされることが多いですが、

  • 書かれている内容に直接目撃して判明する情報が無い。唯一該当しそうであった身長六尺二分に関しては弁慶等の物語の登場人物の身長を写した可能性大。

  • 日記の四月十九日時点で家忠は信長を目撃できる場所にいない。また家忠が信長を目撃できる場所にいた日の記録では弥助に関して一切触れられていない。

  • 日記の記載形式から、弥助の記録は日記本文ではなく後から本文を避けるように追記された内容と考えられる。つまり挿絵等と同じ。

といった点から、『家忠日記』における弥助の件は目撃情報ではなく前年の人魚の話と同様に畿内での噂話を記録したものである可能性が高いです。本当に家忠が弥助を見かけていたなら絵心が刺激されて挿絵に残してくれていたかもしれませんがそれもありませんしね。


おまけ

私も誤解していたので偉そうなことは言えないのですが、そもそも『家忠日記』の記載を弥助の目撃情報だと最初に言ったのは誰だったんでしょうね。半世紀以上前の岩沢先生の論文でも指摘されているのに歴史学ってあまり先行研究は考慮されていない? でも所詮紀要ということかもしれませんが、同じ大学の関係者の論文を無視して査読通しちゃうのはダメだと思います。

岩沢先生のプロフィール。某弥助の論文の査読を通した大学名が見えますね……


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