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”黒人侍”弥助と身の丈六尺二分の謎

弥助の身長に関して、『家忠日記』には六尺二分と不自然なほど細かく記載されている一方、他の文献では一切触れていない(ヴァリニャーノ神父の身長には触れている)という話を以前書きました。

この六尺二分に関して、『家忠日記』には同じ背丈の人魚について記されており、偶然の一致ではないのではないかとされている方がいました。

面白そうなネタなので、少し深堀してみます。

身の丈六尺〇分

『家忠日記』の弥助の六尺二分という身長記述の不自然さには二つの観点があります。一つは直接測ったわけでもない筈なのに寸(3cm)ではなく分(3mm)という細かすぎる単位を使用している点、もう一つは上記の同じ『家忠日記』内の人魚の背丈との偶然とは思えないような一致です。

まず前者の観点もあるので、六尺二分に限らず六尺〇分という身長表現がどの程度使われている物なのか、googleで検索してみます(真面目に論文にでもするのならちゃんとした文献調査が必要でしょうけど今回はお手軽に)。なお、検索すると学校で一番背が高い中島さんの身長が六尺七分であったとか出てきてしまいますが、実測したものは調査の観点的に対象外なので除外するために江戸時代以前に成立した文献に記載されている(とされている)物のみを対象とします。あと中国語も除外。

検索結果は以下の表の通りです。六尺一分も六尺三分も…六尺九分もなく、六尺二分が5件と六尺八分が1件のみが見つかります。つまり、『家忠日記』に限った話ではなくあきらかに偏りがあることがわかります。(9通りの六尺〇分が6つ中5つ一致する確率とすると偶然一致する確率は0.1%以下でしょうか。)「六尺二分」という慣用表現でもあったか、先行する文献を参考に値を流用したかのいずれかであろうと考えられます。

検索に掛かる「身の丈六尺〇分」の文献

六尺〇分の記述の特徴

上記検索で見つかった人々について、それぞれの記述を整理してみます。

俣野五郎景久は源平合戦の平家方の武将です。『曽我物語』では「同じく相撲の事」の段にて相撲の名手として登場し、相撲を取る直前に「色浅黒く、丈は六尺二分」(国立国会図書館の日本古典全集 曽我物語(大正15年))として紹介されています。なお、この相撲で兄弟の父河津三郎に敗れる場面が歌川国芳の『赤澤山大相撲』として描かれたり、河津掛けの由来の一説になったりとかなり有名とのこと。

武蔵坊弁慶は説明不要ですね。幸若舞『富樫』では、こちらのサイトを参照させて頂きますと、弁慶が手配の絵図とそっくりであるという場面にて「武蔵の丈は六尺二分絵図も六尺二分なり色黒く丈高く」、勧進帳が白紙であることがばれないように背伸びする場面にて「六尺二分の弁慶が七尺ゆかたに伸びあがり」との記載があります。

小栗判官は室町時代の人物をモデルにしたフィクション上の人物で、こちらのサイトを参照させていただきますと、一度死んだ後に餓鬼のような姿となっていた小栗判官が熊野の湯の峯での湯治の効果で元の姿に復活する場面にて「六尺二分(ぶん)、豊かなる、もとの小栗殿とおなりある。」との記載があります。

香川勝雄は安芸の戦国武将。『陰徳太平記』の「香川勝雄斬大蛇事」の段にて「其骨柄長六尺八分有テ骨太ニシテ、 … 色眞黒ニシテ十五人カ力ヲ蓄ヘタレバ、サナガラ寺前ノ二王ヲ黒染ニ塗リ出シタルニ殊ナラズ、」(国立国会図書館の陰徳太平記 合本1(巻1-18)(明治44年))と紹介されています。なお、2014年の広島での土砂災害の際に蛇の付く地名が土石流等と関連付けられるような話がありましたが、この香川勝雄が斬ったとされる「大蛇」も同様ではないかという話もあります(佐古憲作「平成26年8月 広島豪雨災害と香川勝雄の大蛇退治について」)。

このようにそれぞれの記述を並べると、フィクション度の高い人魚や小栗判官には異形であるという特徴があり、他の身の丈六尺二分とされる人々は、弥助「くろ男」「身ハすミノコトク」、俣野五郎景久「色浅黒く」、弁慶「色黒く」、ついでに六尺八分の香川勝雄も「色眞黒ニシテ」と、全員が共通して色黒として記録されていることがわかります。

ここまで一致すると偶然とも思えませんから、「六尺二分」は肌色の黒い人を指す慣用表現のようなものであったか、あるいは肌色の黒い人を形容する際に先行する別の物語の登場人物を思い出してコピーしたため記述が増殖したかのいずれかであった可能性は十分に高いのではないかと考えられます。
人魚がきっかけで一致が無いか調べ始めたのですが、人魚以外の方で一致が見つかってしまいました。

松平家忠と六尺二分

弥助を「六尺二分」と記述した松平家忠についてもう少し深堀してみます。
幸若舞というと信長と『敦盛』の話ばかりが有名ですが、実は『家忠日記』にも何度も舞の記載があることが知られています。
ということで市古貞次「増補 幸若舞・曲舞年表稿」を利用させていただいて日記の中から舞に関する記述を追いかけてみると、弥助の話から一年弱前、天正9年5月9日の記事に「亥刻より雨降 桜井舞々越候而 夜打そが くわんじんちやう ゑぼしおり舞候」とする記事があります。

『家忠日記』天正9年5月9日(国立国会図書館デジタルコレクション
どうしても渡り鳥?の方に目がいってしまいますね

「くわんじんちやう(勧進帳)」=上記の『富樫』ですね。内容が現在と変わっていなければ、弁慶が色黒かつ六尺二分という内容があったはずです。「夜打そが(夜討曽我)」には俣野五郎と河津三郎の相撲の場面はあっても体色と身長が語られることはないようですが、この舞を見た家忠が元ネタの『曽我物語』を通じて色浅黒く六尺二分という内容を知っていた可能性は十分あります。
つまり『家忠日記』にある弥助の身長の六尺二分は測定したわけでもなさそうなのに細かすぎて不思議でしたが、家忠が自分の知っていた物語の肌の黒い登場人物の身長をそのまま持ってきただけで実際の身長とはあまり関係なかったのかも知れません。そいうえば『家忠日記』の弥助に関する記述、すごく伝聞っぽいですしね。結構適当なのかも。

弥助に関してはそもそも資料が少なすぎて仕方がない面もありますが、ちゃんとした史料批判をせずに単一の史料に書かれていることを事実だと考えがちな点は問題かもしれません。(某『信長公記』の、特定の日の出来事として記載されている体裁なのに「依時御道具なともたさせられ候」とかのあきらかに後付の将来視点の内容を事実として受け入れてしまっているのもひどいと思っています。)
なかでも「背が高い」や「護衛(戦士)である」といった内容だと根拠が薄くても疑問に思わず受け入れてしまいがちなのはいわゆる無意識の人種的偏見って奴なんでしょうね。要自戒。

まとめ

家忠さん、弥助の身長をやけに細かく書いていましたが、弁慶とか俣野五郎とかの他の物語に出てくる肌の黒い人物の身長をそのまま写しましたね?




よく考えたらきっかけとなった人魚と弥助の身長の一致については不明のままですね。まあいいや。

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