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“黒人侍”弥助とヴァリニャーノ神父と記録の混同 ー 宣教師の記録にあることとないこと③

弥助に関してポルトガル語文献含め調べたことまとめの続き。記録にはあるが参照のされ方がおかしい?小ネタについて。
ベースはこれまで同様、国立国会図書館デジタルコレクションの村上直次郎「耶蘇会の日本年報」及びそのオリジナルであるコインブラ大学のデジタルリポジトリのManoel de Lyra編のいわゆるCartasです。
(2024/7/2 ポルトガル語の解釈違いに関して追記)

以前のものはこちら。

記録に書いてある?

「其丈の高さに少からず驚き」

弥助の身長に関しては、「家忠日記」に「タケハ六尺二分」との記録が残っています。通常、尺は約30.3cm、分は寸(約3cm)の1/10の約3mmですので、そのまま読むと弥助の身長は約182cmということになります。
なお、毎年身体測定をして記録を取っていたわけでもない戦国時代に家忠が特に関わりのない他人の身長を分(3mm)単位で知っていたいうのも不自然ですので、これは六尺二寸(約188cm)の書き間違えだったのかもしれません。あるいは身近に「身の丈6尺の大男(当然ちょうど182cmという意味ではなくそれなりに誤差あり)」がいて、その人よりもほんの少しだけ背が高かった、といった程度の意味だったのかもしれません。

なお「家忠日記」では弥助の身長をわざわざ記録に残していますが、信長と弥助との出会いを記録した「信長公記」及びルイスフロイスやロレンソメシアの報告には特に弥助の身長は記されていませんし、信長が弥助の身長に反応したような記述もありません。信長の周辺では、例えば元小姓の前田利家が身長六尺であったという話があったり、”六尺五寸殿”斎藤義龍が義理の兄だったりしますので、信長にとって弥助と同じくらいの背丈はそこまで珍しくなかったのかもしれません。

ところでルイスフロイスはこの出会いの二日後の記事で、信長が別の人物に対して「其丈の高さに少からず驚き(espantou se não pouco de sua grande estatura)」と記録しています。相手はなんとパードレ・ビジタドールことヴァリニャーノ神父、宣教師たちや弥助のボス(所有者?)です。
宣教師たちにとっても日頃接しているリーダーのほうが弥助よりもよほど背が高かったため、弥助の身長は特筆すべきようなことではなかったということかもしれません。

1581/4/14 Luis Froisの報告 (コインブラ大学デジタルリポジトリ)より一部切り取り
(ヴァリニャーノ神父の)背の高さに驚く信長

「彼と話して飽くことなく」

前のnoteでも引用したCNNサイトの「African Samurai」の著者ロックリー氏へのインタビュー記事には、「史料によると、信長はとにかく弥助と話すのが好きだった(“According to the sources, Oda just loved talking with Yasuke.”)」との下りがあります。

資料に信長と弥助とが話したという記録があるのはロレンソメシアの報告(”殿”の話のやつです)の信長と弥助との初対面の下りだけです。ですので、「史料によると」はこの報告の中で弥助が墨を塗ったわけではない黒人だと知った後の「屢々これを観、少しく日本語を解したので、彼と話して飽くことなく、」の部分を指すと思われます。(先頭の文字は「屢(しばしば)」と思いますが、フォントがつぶれてよく読めないので違う字かも)

ところでこの文、そんなこともあったのかと流してしまいそうですが、冷静に考えると少し違和感があります。話していて飽きない理由として「少しく日本語を解した」はさすがに弱すぎないでしょうか。普通は趣味が合うとか、面白いネタをたくさん知っているとかが理由になるものだと思います。
こういう違和感があるときには原文を見るのが一番です。

& assi não se fartava de o ver muitas vezes, & falar com elle, por que sabia mediocremente a lingoa de Iapaõ,

1581/10/8 Lorenzo Mesiaの報告(コインブラ大学デジタルリポジトリ)より

直訳すると、「だから何度も彼を見ても十分満足はしない、そして彼と話した、なぜなら日本語を多少は知っていたから」あたりでしょうか。満足しない(não se fartava)はすぐ後の何度も見る(ver muitas vezes)にかかっており、彼と話す(falar com elle)とはコンマと&で区切られた別の文ですね。つまり日本語訳は、
「屢々これを観、少しく日本語を解したので、彼と話して飽くことなく、」ではなく、
「屢々これを観飽くことなく、少しく日本語を解したので、彼と話して、」とすれば原文の意味に近くなります。
翻訳か出版かのどこかの作業タイミングで本来「これを観」の後にあった「飽くことなく」が、「彼と話して」の後にずれてしまったのでしょうか。

ということで本来の記録上は信長と弥助は初めて会ったときに一度話しはしましたが、飽きることが無いなどということは特になかったようです。一度話しただけの相手を「とにかく話すのが好きだった」と考えてしまうのはさすがにストーカー的拡大解釈にすぎると思われますので、このインタビューの「史料によると(“According to the sources”)」には対応する資料はないということになってしまいそうです(sourcesと複数形になっていますが、他の情報源は不明です)。
なお、インタビュー記事にある「信長にはまた、日本語に堪能になっていた弥助から世界情勢を聞き出す狙いもあった。」(こちらにはソースがあるとは言っていない)等の記述もおそらくここの「彼と話して飽くことなく」あたりからの想像を更に膨らませて思いついたお話かと思いますが、残念ながらそもそものスタートから間違えていたようです。
ロックリー先生、実は宣教師の報告は日本語訳でしか読んでいなかったり…さすがに疑いすぎでしょうか。

(2024/7/2 追記)動詞の活用を見てもう少し長い範囲を一つの文として解釈すべきではないかとのご指摘をいただきました。つまり、ver(見る)とfalar(話す)が同じ活用、sabia(saber:知る)と一つ先のtinha(ter:持つ)が同じ活用なので、それぞれが&で並列に結ばれていると考える。
すると、「だから何度も彼を見ても、彼と話しても十分満足はしない。なぜなら彼は日本語を多少は知っており、かなりの力と少しの彼(信長)が気に入る良い技を持っていたから。」という感じになるでしょうか。
「耶蘇会の日本年報」の日本語訳からは遠ざかり、見世物扱い感が加速してしまいますが、こちらの方が文章として自然かもしれません。いずれにせよ、信長が弥助との話の内容を好んだという方向の解釈にはならないことは変わらなさそうです。

「長時間種々の事に付いて語つた」

上で引用した信長がヴァリニャーノ神父の背の高さに驚いた話のすぐ後に、信長とヴァリニャーノ神父との会話についての記録があります。
「長時間種々の事に付いて語つた(es teve hum grande pedaço com nosco falando de diversas cousas)」。
こちらは単にfalar(話す)とだけあった弥助の時の異なり、grande pedaço(長時間)、diversas cousas(様々な事柄)についてnosco falando(一緒に話す)と形容がついているので、信長はヴァリニャーノ神父の話に本当に興味をもっていたことが窺われます。どちらかというとこちらの方が「彼と話して飽くことなく」とか「とにかく話すのが好きだった」「世界情勢を聞き出す」に近いかもしれません。

1581/4/14 Luis Froisの報告 (コインブラ大学デジタルリポジトリ)より一部切り取り
(ヴァリニャーノ神父と)一緒に長時間様々な事に付いて語り合う信長

ところで、ルイスフロイスの記録によれば宣教師たちはこのタイミングで月曜日(2月23日)と水曜日(2月25日)の2回信長と面会しています。

1度目の面会は信長の求めに応じてオルガンティノ神父が黒奴(cafre)を連れて行ったとされるものです。(ですのでフィクションでよくある場面と異なり、信長と弥助との出会いの場にヴァリニャーノ神父は同席していないことになります。)前のnoteの地図にも書きましたが、宣教師たちの南蛮寺は信長の宿所である本能寺から歩いて5分程度の距離とすぐ近くですので、黒奴(cafre)を見ようと人が集まり騒ぎになっていることに気づいた信長が待ちきれなくなった呼んだということかもしれません。

2度目がおそらく本来の正式な面会で、ヴァリニャーノ神父がオルガンティノ神父とルイスフロイスを連れて信長の元へ赴き、黄金の椅子(cadeira dourada)や深紅のビロード(vidro christalino)、クリスタルガラス(vidro christalino)を献上しています。一方で黒奴(cafre)に関しては同席したかも含め一切記載されおらず、リストアップされている献上物にも入っていません。

なお、「信長公記」では、「きりしたん国より 黒坊主参り」と「伴天連召列参」の二つのエピソードを2月23日の記事にまとめています。これは、二つを分けても煩雑になってしまう(更に間に勝家上京の話が入ってややこしい)という判断だったのかもしれません。
同様に、現代で物語を作る人たちにとってもヴァリニャーノ神父の話(背の高さに驚いたり長時間話し合ったり)は弥助の物語を盛るために丁度良い材料として都合よく混ぜられてしまっているのかも知れません。

「同伴した黒奴を見んとした」@長浜

弥助のエピソードとして拾われることはあまりありませんが、宣教師の報告の中に弥助かもしれない「黒奴(cafre)」の話がもう一つあります。(本記事執筆時点のWikipedia英語版Yasukeの記事では、藤田 みどり「アフリカ「発見」―日本におけるアフリカ像の変遷」を参照して記載があります。)
信長との面会から1か月少々後、ルイスフロイスはヴァリニャーノらと別れて柴田勝家の治める越前北ノ庄に向かうのですが、その道中の長浜にて、ここには神父が来たことが無いのでフロイスらを見て大騒ぎになった、という話の後に以下の記述があります。

其家に着いて、主人は群集の入ることを防ぐ爲め戸を閉ぢたが、三、四回之を破って家に入り、同伴した黒奴を見んとした。

村上直次郎「耶蘇会の日本年報」一五八一年五月十九日 ルイスフロイスの報告

この後の越前での報告には一切出てこないため、この黒奴が弥助を指すのか、弥助とは別の黒奴なのか、あるいは別の解釈をすべきなのかは情報が少なすぎて不明です。
弥助が先の面会で信長に仕えることになったのであればここでルイスフロイスに同行しているのはあまりに不自然ですし、他の黒奴とするとヴァリニャーノ神父は都に複数人の黒奴を連れてきていたことになりますが、それを示唆するような記録もありません。「同伴した黒奴(cafre que traziamos)」はこの時同伴しているのではなく以前同伴していたという意味で、京都で連れていた噂が長浜まで届いていていただけでこの場にはいない、というのも厳しそうです(traziamosは一応過去完了らしいのですが、ポルトガル語に詳しくないため細かいニュアンスはわかりません)。単純にルイスフロイスが他の場所での話と混同して書いてしまったというのもあり得そうではありますが、さすがにそれを仮定できないですしね。
日本側の記録にでも何か対応する記載が発見されれば弥助の置かれた立場を知る上で大きな情報になるかと思いますので、今後の研究に期待、ですね。

まとめ

  • 信長が弥助の身長に感銘を受けたような話は記録にはありません。一方でヴァリニャーノ神父の身長の高さに驚いたような記録はあります。

  • 信長が弥助との会話を特に好んだとするような記録はありません。「彼と話して飽くことなく」というのはイエズス会報告の日本語訳における誤訳(誤植)です。

  • 一方で、信長はヴァリニャーノ神父との会話には非常に興味を持ったことを窺わせる記録があります。(「長時間種々の事に付いて語つた」)

  • 信長と弥助の面会から1か月強の後、ルイスフロイス神父の越前北ノ庄行きに関する報告の中で、道中長浜にて黒奴(cafre)に関する記載が一度だけ出てきます。これが弥助であるのか否か、弥助であったとしてどのような立場だったのかは記録が無いため一切不明です。

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