記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

アニメや漫画に正義を探す。

こんにちは。22生の隠神です。

今回はオタク語りということで、一押しコンテンツとあるのですが、何でも好きなことを書いていいといわれたので、私が大好きな、アニメにおける思想、その中でも正義について考えてみようと思います。 


はじめに

皆さんが正義と聞いて思い浮かべるのはどのようなものでしょうか、この世の中には多種多様な正義があります。よって、絶対的な正義などないのかもしれません。この考えは当たり前といえば当たり前で、昔からあり、「相対主義」と呼ばれます。「それは、あなたの正義ですよね。」と聞くと、どこかの論破王の方を思い浮かべますが、相対主義を提唱したのはプロタゴラスという、古代の論破王だったので、どんなものにも絶対性を否定して反論が可能な相対主義は、論戦好きな人には便利であるのかもしれません。ただ、どんなものにも答えがあってほしいのが人としての性です。よって、私は以降で言及する正義をその絶対性で評価します。つまり「いつでも正しいといえる正義(行為)といえるか」ということです。したがって、今後の内容がアニメの思想を否定するものでないことはご理解いただけると幸いです。また、解説の関係上、アニメや漫画のネタバレを多く含みます。まだ見てない人は、後で見るか、見てから読んでください。(セリフや思想の解釈を間違っていたら、ごめんなさい。)

アニメ、漫画における正義

亜門鋼太郎(東京喰種)の正義

まず、最初に私が好きな正義についての考え方として、『東京喰種』の亜門鋼太郎のたどり着いた結論があります。その考えがそのまま表れたのが、「この世界は…歪んでいる… なにが正しいか なにが間違っているか… 簡単にわからなくなる だから… 考え続けるんだ… お前の選択が間違っていないか その行為だけは正しいと言える事の筈だ…」という、才子にかけた言葉です。

個人的には一つの結論といっていいと思います。

亜門は東京喰種における、もう一人の主人公といっていい存在で、その考え方は、話を経るごとに変わってきました。最初の喰種を恨み、喰種すべてを悪と断じていたところから、金木という、友好的な喰種との邂逅、自身が喰種となった絶望、CCG側の正義への疑念、そうして人として喰種として世界を見ていく中で生まれたこのセリフは、東京喰種という、あまりにも正しさが定められない世界で最も正しくあるのではないかと思いました。「正しさを疑う」この行為は、基本的に間違いようがありません。そうして生まれた正義はどんどんとその精度を高めるはずだからです。しかし、この考えに問題点があるとすればそれは、その不安定さ、決定の遅さです。前は、ああいってたのに、今はこうなっているというように個人の正義としては適当でも、こと集団においては、この思考は不信を招きますし、「巧遅は拙速に如かず」という言葉がある通り、素早い決定による意思統一は多くの場面で求められ、その精度よりも優先されます。また、上のセリフで亜門が「はずだ」といっているように、正しさを疑うということは、「正しさを疑う」ということの正しさも疑わなければならず、その入れ子構造は、止まるところを知りません。結果として、この考えは正しさを疑うということの正しさを前提においており、自己矛盾するものになっているという問題があります。ただ、正しさを疑うことの正しさを確認し前提とするという考え方もあるので、これは一つの正義としての結論といっていいものだと思います。

衛宮切嗣(fate zero)の正義

衛宮切嗣の正義は単純であり、「大の虫を生かして小の虫を殺す」、最も多くの人に良い結果となる選択をするというものです。この考えは、「最大多数の最大幸福」というベンサムというイギリスの思想家の考えに近いですが、その違いは、最大多数という点にのみ目を当てている点です。トロッコ問題で、必ず人数が多いほうを助けるのが切嗣の思想だといえばわかりやすりやすいでしょうか。人数という明確な数値で表現できる指標を正義のものさしとしたことは正確性という点で理解できることではあります。しかし、率直に言えば、私はこの思考は悲惨だと思いますし、好みません。確かに、幸福というのは数値で表現できません。しかし、だからこそ、その価値を軽々しく捨てるべきではないと思います。作中で切嗣が壊れていく様子は、その最たる例でしょう。

よくネタにされますが、本当に悲惨だと思います。

切嗣は、多数の死者が発生する可能性と育ての親ともいえるナタリア一人の命を比べて、前者をとり後者を捨てました。妻と娘の命と世界を天秤にかけ、前者を捨てました。しかし、多数の人々が死傷したとして、世界中の人々がその人々に向ける感情が、切嗣一人がナタリアに一人に向ける感情を超えるとは誰一人証明することはできないのです。この考えは、多くの人から称賛されうる、大多数のためになるという点で、最も正義に近いですが、その取捨選択が人数という、感情的な強度、大きさを無視しており、絶対的とは言えないのではないかと思います。ただ、逆に幸福の大きさを求めようとすると、その要素が不安定になるので、絶対性を失わせてしまうかもしれませんが…。

衛宮士郎(fate stay night UBW)の正義

よく切嗣に対比し、機械と称される士郎も正義を追った凡人なんだと思います。

私がこの記事を書きたいと思った動機の一つでもあるのが衛宮士郎という存在です。彼の正義というのは、固定化されているようで非常に不安定に思われます。ある時は切嗣のように多数を生かそうとします。ある時は、多くを犠牲にしかねないような道を進もうともします。ただ、彼の正義を一言で表すとすれば、切嗣が自分を助けたように誰かを助けたいという「献身」だと思います。実を言えば、この献身というものは非常に正義に近いものだと私は思います。

上の画像との差がすごい。

それは私が正義の理想形として「アンパンマン」のようなヒーローを見ているからだと思います。アンパンマンはまさに献身の権化といえます。作者のやなせたかし氏の言葉ですが、「本当の正義の味方は、戦うより先に、飢える子供にパンを分け与えて助ける人だろうと。そんなヒーローを作ろうと思った。」というものがあり、これに異議を唱えることは早々できないと私は考えます。しかし、私は「衛宮士郎」という存在がとても嫌いでした。士郎の行動にも献身は多く描かれます。生徒会の備品の修理に始まり、慎二の要求にこたえたり、とにかくfateのなかでは士郎の献身性は顕著に描かれています。それは英霊となったエミヤについても同様でしょう。彼は士郎のその後に起こる「後悔だらけの永遠の正義の実行」ということに対しての憐憫から、過去の自分への献身のために士郎を殺しに来たのです。ではなぜ、私は衛宮士郎という存在に嫌悪感を抱いたのでしょうか。まず、前述のエミヤのやり方を見ても、士郎の正義、献身はどこかがゆがんでいるということがあると思います。そして、アンパンマンと衛宮士郎という人間の正義を比較したときに両者にはいくばくかの違いがあります。それは十全な能力を持っているかです。アンパンマンはたいていの場合において、すべてを救って大団円を迎えさせます。対して、士郎にはそれができるだけの十分な力がありません。というか、fateでも、現実でもそれだけの力を持っているものはいないといっていいと思います。そんな無茶なと思うかもしれませんが、これはこの後に説明するすべての内容につながってきます。

「正義なき力が無力であるのと同時に 力なき正義もまた無力なのですよ」 byアバン

衛宮士郎が求める正義の味方の理想は「常に正しく、すべてを救うこと(すべての人を幸せにすること)のできるヒーロー」です。一度間違いとなれば、その正しさに絶対性はなくなるので理解はできる考えですが、これには、莫大な力を必要としますし、確実な正義という指針を必要とします。もちろん、士郎もそれが夢であることは認識しています。しかし、士郎はその夢を追うことをやめられません。なぜなら、それが夢と認めることは、自分の今までの行動指針に間違いがあったことを認めることになるからです。そうなれば、彼は一生正義の味方となれなくなってしまいます。だからこそ、アーチャーに裏切られた凜に彼はこう言います。「それは単に失敗しただけだろ。遠坂は間違えてなんかない。間違えていないなら、失敗しても胸を張れると思う。」と。つまり、士郎にとって力不足による失敗はしても良いが、正しくない選択をすることはよくないということです。これは彼なりの妥協案というか、結論なのでしょう。「常に正しく、すべてを救おうとするもの」として、彼は現実的な正義の味方を定義しています。can(できる)でなくwill(しようとする)ということです。しかし、能力の不足によって生じているこの差は、大きな問題をはらんでいます。それは、自分が扱える範疇を越えた行動をしてしまうということです。それが顕著に出たのは、UBWでイリヤが殺される場面でしょう。

本当に心が痛むシーンです。

士郎は隠れていましたが、この状況で、飛び出さないなら正義の味方を語ることはできないでしょう。しかし、このとき士郎は一人ではありません。凜がいて、士郎が飛び出せば両者が死亡する可能性もあったわけです。しかし、凜の静止にもかかわらず、士郎は飛び出します。すべてを救おうとしなければいけない、常に正しくなければいけない彼の正義が、この状況を見逃すことを許さなかったのです。しかし、この選択は正しいでしょうか。アンパンマンなら、両方守れるので、正しくあり続けることと、すべてを救おうとすることは合致します。また、アンパンマンは基本的にパンをあげるだけで、他者を巻き込まないようにしますし、献身が自身のみで完結しています。しかし、士郎のように他者を巻き込んでしまう献身というのは時に非常に危険です。なぜなら、善意で他者を社会を傷つけうるためです。士郎は後悔をしません。なぜなら、自分が行ってきたことはすべて正しくなくてはいけなく、その時点において正しい選択をしているという自負があるためです。しかし、それが万人にとって、そして未来から見て正しいとは限りません。事実、アーチャーとなったエミヤは、自身の過去を見返したときに、「結局、すべては救えないし、自分がすることは意味をなしていない」、つまり、自分は正義の味方であろうとし続けることはできても、理想のような正義の味方になることは不可能であるという未来から見た自分の足跡に絶望し、後悔して、士郎を殺そうとしたわけです。いろいろなアニメを見てくれば、どこかで善意が他者を巻き込み傷つける様子を見ることがあると思います。私が最近見たものだと、トラぺジウムの東ゆうなんかは、とてもそれっぽいでしょう。

すごい表情

彼女は、「かわいい子は全員アイドルになるべき」と信じていました。彼女にとって、アイドルほど素晴らしい職業はなかったので、他の東西南北のメンバーにとっても、アイドルになることはすべてにとって良いことであると信じて疑いませんでした。自分がアイドルとなりたかったから、利用したという部分もあったでしょう。しかし、彼女は本当に完全な善意から、東西南北をアイドルとしようとしたのだと思います。しかし、それは他の東西南北のメンバーにとってはそこまで好ましいものではなく、それぞれに傷を負わせることとなってしまいました。自分の手が届く(責任をとれる)範囲を超えると、時に善意の献身も人に牙をむきます。ただ、自分に許される範囲、での献身は人一人がなせるものの小ささを考えなければ、間違いなく、正しいといえると思いますし、一つの正義の理想であると思います。それは、後述の正義の本質に相対せるほどです。

正義の本質

最後に、今まで言及しなかったというか意図的に目をそらしてきた、多数者による正義について書きたいと思います。多数者の指示する意見、多数者は強者や勝者とも書き換えられますが、その意見が正義となることは、正義というものの発足の資質上、確実で決定的なものであるように思われます。例えば、先ほど挙げた「トラぺジウム」では、その様子がわかりやすく見えます。映画「トラぺジウム」において、東ゆうが他の東西南北のメンバーに押し付けた「アイドル以上に素晴らしいものはない」という理想は、作中でも、私が友人と話したり、感想サイトを見たときにも問題視されています。しかし、理想を押し付けているのは、東ゆうだけではないことに気付いているでしょうか。アイドルという存在は、そもそもが理想を押し付けられる偶像です。「トラぺジウム」においては、東のアイドルに対する認識の問題や他者との齟齬が「性格の悪さ」といった形で多く話題に上がりますが、話をよく見ると、くるみが苦しんだのはアイドルとして過ごす日常の激しさだけでなく、ファンによって理想を押し付けられ、誹謗中傷をうけるという、東が語るアイドル像との齟齬にもありました。このとき、東ゆうの理想の押し付けを悪とするならば、アイドルという存在、正確にはそれを祭り上げる人々にも悪性があってしかるべきでしょう。しかし、その悪性には作中、および作品外でも触れられているのを見ません。この差こそが、多数者、または金銭を与える側という強者によって、正しさが構成されていることをわかりやすく示すものでしょう。しかし、私はこのような弱者や、もしそれが強者であっても、責任や理想、思想、主義を押し付けることが正しいとは思えません。ただ、この考えを正しいとするにしても、しないにしても、それもまた多数者の意志によって決定することになるでしょうし、押し付けになりえます。前節で語った、衛宮士郎の正義への嫌悪も自分の正義を押し付けるならば、自身にとっての悪性をなしていることになるわけです。こう考えるならば、個々人の理想としての正義でなく、他者と共有できる正義を求めるならば、多数者の理想を外したところに正義は存在しえません。ならば、やはり多数派であることは正義の正解の一つであるように思われます。

さいごに

いかがだったでしょうか。書きたいことを書きたいままに書いているので、読みづらいところもあったことと思いますが、色々な正義の描かれ方があるんだなぁと思っていただけたなら幸いです。作品における問答は時に難解で、聞き飛ばしたくなる部分もあると思いますし、意図して聞こう、読み解こうとは思わないものだと思います。しかし、それを理解することで、我々はよりキャラクターに親身に作品を理解できると思います。これを機にすこし興味を持ってもらえたら嬉しい限りです。結びに、私のこのすさまじく面倒くさい議論に協力してくる電通大声研はまじでいいところだと言って、この記事を締めたいと思います。改めて、ここまで読んでいただきありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?