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建築紀行 その1 広島アンデルセンと原爆

※本コラムは、2019/8/29に株式会社ジャストのコーポレートサイトへ投稿されたコラムの再掲となります。


昭和20年の今日8月6日8時15分に広島に原爆が投下された。死者はその年だけでも14万人であった。 被害は建物や都市建造物にもおよび、広島の市街は壊滅した。多くの建物が破壊・消失し残った建物はわずかであった。そして爆心地に建てられていた広島産業館がガレキ同然ではあったが残り、これが原爆ドームとなった。
ちなみにこの広島産業館の設計者はチェコ人であるヤン・レツェルであった。
爆心地近くの2つの川に挟まれた地域は被災前は多くの建物が建っていたが、広島市平和記念公園および記念館競技設計により整備され、丹下健三の設計による公園、慰霊碑と原爆資料館が建てられた。
そして1996年には世界遺産として登録されている。  

原爆ドーム以外でも被曝建物は現存していた。そのうちの一つが帝国銀行広島支店であった。繁華街の中町にあり、爆心から400mの距離であった。
この建物が竣工したのは、1925年(大正14年)で三井銀行広島支店として新築された。1943年には、太平洋戦争の統制により帝国銀行となり、1945年に被曝した。  
1950年に改修されたあと、1967年にタカキベーカーリ(現アンデルセン)が三井銀行より購入し、アンデルセンの店舗として改修された。1978年に新館増築とリニューアルがおこなわれ、その後も改修・耐震補強が行われてきた。
改修がおこなわれたが、当初の銀行の営業室であった、営業室の吹き抜けは保存され、外壁もアーケード側の北側や東側は当時の形がかなり保存されている状況であった。  
建物の設計者は長野宇平治である。長野は越後国高田(現新潟県上越市)に生まれ、東京帝国大学を卒業後、日本銀行技師として日本銀行本店や各地の支店を設計した。日本橋に建つ日本銀行本店は恩師である辰野金吾の設計であるが、関東大震災で被災した建物の修理保存に従事している。なお、横浜の東横線の大倉山駅ちかくにある、大倉山集古館(旧大倉精神文化研究所)は彼が設計した現存している数少ない建物のひとつである。

ジャストでは、2018年にゼネコンの依頼をうけ、広島アンデルセンの構造調査をおこなっている。調査は、現況調査と保存が予定された東側の壁・柱についてコア採取をおこなった。
壁・柱とも増設されていたが、柱・壁の圧縮強度や中性化についてもデータを採取している。柱は長いコアを採取しており、創建当初とその後の改修部も貫通したコアであるため、仕上を中間に含むなど、複雑な層構成であった。

調査は調査診断一部のMさんによって行われたが、改修が複数回行われた建物であり、長いコア採取が予定されたため苦労したのとのことであった。

これらの調査が終了した後、店舗新築のため解体工事が着手された。2020年8月に新店舗が竣工の予定でありその外壁の一部に、前の建物の外壁が保存されてはめこまれる予定となっている。また、2,3階は当初のデザインが踏襲されるとのことで、歴史的な建物としての面影を残して再生されることをこころから喜びたい。

なお、アンデルセンのパン屋さんは、各地に店舗があるが、アンデルセングループはフランチャイズとしてこれらの店舗展開をしているようである。

ところで、先週にはNHKで「この世界の片隅に」が放映されたが、広島に近い軍港都市であった呉に暮らした家族の物語である。軍港であるだけにたびたびの空襲をうけ、被害も大きかった。そこで、それまで比較的空襲の少なかった実家のある広島に戻るという選択も考えた主人公のすずであったが、広島に戻らなかったかわりに家族を原爆で失う。戦争の時期を必死に生き抜いた普通の家族の切ない話である。

横浜の調査診断部で建物調査の報告書を確認するという仕事を担当しているが、結構興味ぶかい調査建物に遭遇する。
それらのことをつたない筆ではあるが、内容的に差支えのない範囲でこれから書き綴っていきますのでよろしくお付き合いください。

調査診断一部
野村 義清

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