自由の裏側
※本コラムは、2018/5/2に株式会社ジャストのコーポレートサイトへ投稿されたコラムの再掲となります。
コラムの話をいただいて、「何を書くんだ?」と考えてみた。
題材は自由、文字数も自由・・・
いつの頃からか、この手の「自由」という言葉が苦手になった気がする。
小学校、中学校、高校と学生時代の「自由に」という言葉はどこか希望を感じる嬉しい言葉だった気がしたな・・
自由か・・と思いつつ、「コラムとは」を検索「短い評論などを掲載する欄。また囲み記事。」
考え込んだ挙句、自由の裏側に気が付いた時の事を思い出しながら書いてみる事にした。
まず、学生時代の嬉しかった「自由」とは、事前に決められた枠の中でのことが多い。
学校行事の自由行動なんてまさに、「この範囲の中で」や「この時間の中で」が入っている。
対して社会人になって、人から言われる「自由」という言葉には、自分自身の思いだけではなく、発信者の思いが入ってくることが多い。
それが決められた枠です。と言われてしまえばその通りなのだが、学生時代のダメというものは事前に提示されていて、社会人では相手の思う範囲内でという暗黙のダメが存在する。
「事前」か「予想」か、この差が大きい、更に相手の「普通」を予想しなければならない。
この予想と普通を読み間違えると、大抵やり直しと注意が待っている。
そんなことを考えていると、「自由」という意味のイメージとは程遠い感じがしてきた。
自分の場合はこれが苦手意識の元だろう。
「普通」については、少し前の篠田さんと同意見という事で省略致します・・。
もちろん、読みがハマって高評価だったときの達成感はかなり気持ちが良いものですし、それが自信につながって成長したりもします。
発信者の存在する「自由」とは発信者のダメに当てはまらず、且つ発信者の予想を超えたものが高評価という、およそ言葉の意味からかけ離れたような不思議な理屈で成り立っている。
これをどうにか自分に納得させ、この不思議な理屈が自分の中で普通になったときにやっと分かったような気がしました。 それは、「自由の裏側には必ず責任がセットで付いている」。
自身の自由であれば、自身に対する責任。
発信者の自由は、発信者が負える責任。
「そこまでいったら責任とれないよ」それが枠という事だった。
自由の裏側が解るようになって、「また一つ社会人として、大人になったな。」なんて勝手に納得したことも思い出した。
「きちんと自分で考え、人の自由な意見も聴ける」そんな大人を目指していきたいと思います。
探査・コア部
小泉 道臣