狂言師の前で待ち合わせ
鏡のまえでぼーっと突っ立っている。服を試着してるわけでも、誰かに「そこになおれ」と言われたわけでもない。しかし突っ立っている。突っ立たずにはおれない、というわけでもない。ただなんのこともなしに、突っ立っているのだ。突っ立っているだけでは能なしなので、鏡面を指で押す。固い。固いが、少しながら波動が生まれた。たしかに自身の顔が波打ったので、もしやするとこれは鏡面ではなく水面なのかもしれない。みなも。格納された水面なのではないか。
幼少期を思い出す。まだ幼子のころに私は噴水を訪れた。ただし自分の意志ではない。両親が連れてきてくれたのだ。噴水は私の心を一瞬で奪った。なぜ無限に水が出るのか。どうして干からびないのか。不思議でたまらなかった。おもむろに噴水に入る。両親はたぶん笑っていたと思う。出水口に近づいて、水を掬った。振り向いて、両親をめがけて水をかけた。一緒に楽しんでほしかったのだ。水はしぶきを上げてあたりを濡らす。噴水は私にかかわりなく活動を続ける。笑顔で顔を上げるとその両親は泣いていた。なんで泣いているのか、私には分からなかった。水をかけたのがまずかったのかしら。
「もしこれが水面だとしたら……」。私は手をグーにして目の前のモノを殴ってみた。鏡は勢いよく割れ、こぶしが強烈に痛んだ。見ると細かな破片がいくつも刺さっている。食い込んでいる。うすく、点々と血がにじんでいる。比較的大きな破片は、テレビのなかの手話ニュースを写していた。私はこぶしに刺さった鏡ごしにテレビを見る。「16日未明はおおぐま座が最盛期を迎えます。月よりも大きく見えるこの現象は発見者の名前をとってリー・アン現状と呼ばれ、実に30年ぶりの……」。
水面ではなかった。とても鏡だった。拳に埋まった破片をピンセットで取り出す。ぴゅぴゅぴゅと血が垂れる。舌で舐めると鉄の味がする。そういえば血は鉄の味がするのだった。
私は鏡のときと同じようにテレビのなかで原稿を読むアナウンサーに狙いを定めた。ポタポタと血がしたたる拳を固めて、勢いよく殴る。表面は割れなかった。テレビは思ったより頑丈だ。
内部の液晶が割れて娯楽は無くなった。ただ網目状に光を発するだけ。三原色はいま、ようやく生まれた。「おおぐま座が、カシオペアが、つ、つき、つき、が、巨大なおお、ぐ」と、崩れた音声が鏡の向こうから聞こえる。聞き覚えのある声だ。幼いころに私を叱ってくれた、あの声だ。
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