サバンナには貴婦人の群れが
10畳のリビングでうつ伏せになり、秋野はため息を漏らした。なんとなく爪でフローリングを引っ掻いてみる。なんであたし背中にマンホールの蓋なんて付けちゃったんだろ。
きっかけはなんてことなかった。ただマンションの前にあるマンホールの周りで、小学校低学年らしきこどもたちが、手をつないでぐるぐる回っていたのだ。かごめかごめなどとは言っていなかった。ただ単に叫んでいただけ。「円形脱毛症にオシャレなフレンチ盛り付けようぜぇ!」とか「バーバパパってバツ3らしいぞおい!」とか。そんなことを叫んでた。
秋野はそれを見ていて、なんだかうらやましくなった。22歳の彼女には友だちがいない。いや、厳密に言うといたのかもしれない。彼女の周りにはいつも数人の女子がいた。肘井に丸藤、井沢、紙田……でも秋野は彼女らのことを友だちと思ったことはない。そしてたぶん彼女らも秋野のことを友だちだなんて思ったことはないのだ。ただのひとりの集合。それ以上でも以下でもない関係。
気がついたら秋野は水道局に電話をかけていた。「あの、マンホールの蓋を背中に取り付けて欲しいんですけど」。「あ、はい。お名前とご住所をいただけますか?」。局員に住所を説明する。到着まで1時間ほどかかるとのことだった。一応、外科にも問い合わせたが「水道局のほうにお願いします」とやんわり告げられた。一度、部屋に戻るべきか迷ったが、気づかない間にマンホールの蓋を盗まれてしまったらたまらない。近くのコンビニでアルフォートを買って、それをかじりながら子どもが喚くのを見ていた。
30分ほど経って「いのちの水を大切に」とプリントされた軽バンが近くにとまった。メガネをかけた小太りの水道局員がふたり降りてくる。
「あ、すみません。こっちです」「秋野あゆみさんでよろしかったですか?」「はい」「えっと、マンホールは」「あ、あそこの」。
秋野は、子どもたちが「りなちゃんは、エビの尻に口つけなきゃ呼吸ができなーい!」と叫んでいる部分を指差した。
「あ、アレですね」。局員たちはスタスタとマンホールまで近づくと、手をつないで輪になっている子どもたちに「ほら、どいたどいた」と声をかける。子どもたちは反論することもなく輪になったまま「李氏朝鮮! 李氏朝鮮!」とマンホールを離れて、どこかに歩いていった。
秋野はそこではじめて自分の過ちに気付いた。友だちはマンホールの蓋がなくても友だちなのだ。そうだったのか。じゃあ、もしかしたら別にマンホールの蓋とか、要らないかもしれない。
しかし、局員たちはすでにマンホールを取り外しにかかっており、いまさら「要らない」なんて言えない。申し訳がない。彼らはふたりがかりでマンホールの蓋を持ち上げると、秋野に「ちょっとうつ伏せになってください」と告げる。秋野は「あの、あの」とオロオロしながらも仕方なくうつ伏せになる。
スウェットとティーシャツをめくられ、ブラジャーのホックを外されたと思ったら、ひんやりとした感触があった。「この辺かなぁ」「もうちょい右じゃないですかね」なんてやりとりを聞いたあと「ちょっとチクっとしますね〜」と声がして、ズキっと痛みを感じた。「はい、終わりましたよ」。
秋野はうつ伏せのままスススと背中をなぞる。皮膚の感触を感じたあと、凹凸した金属がある。めり込んでいる。背中から、少しだけマンホールの蓋が浮き出ている。
「では、今後とも水道局をよろしくお願い申し上げますね」。彼らはキャップをとって一礼し、颯爽と車に乗って帰っていった。
秋野はうつ伏せのままで頭を下げたので、アゴがアスファルトにぶつかった。しかし、痛みはない。立ち上がろうとしたが、痩せ型の彼女としては50キロのマンホールの蓋はかなり重くて、なかなか立ち上がれず難儀する。結局、ほふく前進でエントランスに入った。エレベーターのなかにはスーツ姿の青年がおり「開く」を押したまま待っていてくれている。「何階ですか?」「あ、6階です」。
それでなんとかリビングまで戻ってきて、ぼんやりと風に吹かれながら、薄く後悔している。あたし、なんでマンホールの蓋なんて付けちゃったんだろ。
情けなくなり、なんだか泣けてきた。誰かに電話しようと思ったけれど、かけるべき相手が思いつかなくて、スマートフォンの電源を消す。お腹が空いた。でも冷蔵庫まで這いずる元気はない。ドアを開けられたとして、冷食を温めることもできない。このまま餓死するのかしら。マンホールの蓋を背負ったまま。あたし、ひとりぼっちで死ぬのかな。もしそうだったら、お葬式は身内だけのほうがいいな。それとマンホールの蓋は火葬の前に外してほしいな。
冬のフローリングはひんやりとしていて、なんともいえない気持ち悪さを感じた。
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