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アジャコングはきっと、誰よりもアジャコング
「懐かしいなぁ」
佐伯美子は、ほこりをかぶった段ボール箱を開けて独りごちた。ぎっしりと詰まった少女誌を適当にめくる。物語に没入し、ため息を漏らしていた小学生のころを思い出していた。
お目々が顔の6割ほどもある美少女たちは、色が白くて正義感が強い美男子たちと恋に落ちる。たびたび困難がふりかかるが、彼女たちは決してめげない。事件のたびに恋心は募り、惹かれ合うようになり、いつしかきちんと結ばれる。美子は「いつかひょろっとした、顔の小さい白馬の王子さまがやってくるのだろう」と想像しては、桃色吐息で窓辺を眺めたのだった。
美子は段ボールの箱をパタンと閉めて、押入れに戻す。20年前、17歳の七夕を思い出した。
当時、彼女は受験勉強の真っただなかで、その日も朝から図書館に向かっていた。自動販売機で焙じ茶を買って、すするように飲みながら公営団地の角を曲がると、白馬がしゃんと立っていた。高級なカシミヤみたいに毛並みが美しい白馬だ。誰もまたがっておらず、犬みたいに首にリードを付けられ、持ち手は電柱に巻かれている。
「もしかすると王子さまに会えるかも」と思い、美子は白馬の前で待つことにした。こんなチャンスはそうない。ドキドキしていると「うるせぇこらぁばばぁてめぇ、7月7日は出るに決まってんだろうがぁ、だまってろこのやろぉ」と怒鳴り声がして、ハゲ散らかった小太りの中年が隣家の扉から出てきた。
「よっこらせ」とのろのろリードを外し、パーカーのポケットに入れてから白馬にまたがった彼は、美子の姿を見つけると「なんだてめぇ」と荒々しく声をあげる。「あっ、いえ、えっと……」とモゴモゴしているうちに白馬はゆっくりと団地を抜けていった。美子は何ごともなかったかのように図書館を目指す。焙じ茶がさっきよりもちょっと苦かった。
「あの日だった」。
美子は左耳を触る。白馬に乗った中年を見た日に、彼女はピアスを開けた。左耳の軟骨を貫通した3つの小さな孔は、彼女にとって大きな変化である。少女から脱けだして、なんとなく大人の女性に近づいた日であり、以来お目々のキラキラを眺めることもしなくなった。
それから今日まで、白馬に乗った王子さまに4、5回ほど声を掛けられたが、彼女は馬の頭を優しく撫でるだけで、着いていくことはない。もちろん何度か恋愛をしたが、相手は皆、地に足がついている素敵な男性だ。
押入れを閉めて、キッチンでコーヒーを淹れる。ダイニングの椅子に腰掛けて、PCをひらいた。彼女はいまビジネス系雑誌の編集長を務めている。部員たちが出した来月号の企画をまとめて、もっと良くできないかと考えてみた。日曜だが、仕事。それが彼女にとっての日常なのだ。
「もっと良くできないか」のとき、美子はいつもにやけている。少なくとも彼女にとって雑誌の編集は、白馬の王子さまを待つより刺激的でおもしろい。どうしようもなく幸福な時間なのである。
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