アドバイスは時に暴力性を孕む
人には他人から見れば忘れてしまえばいい事案に見えて、どうしても許せないことがある。それは一人ひとりが今まで通った人生という軌跡とそれに対する解釈、環境、自分の中で構築した基準やインセンティブによって決まる。許しがたいものはとても形而下的なものじゃないだろうか。
私にとって仕事は何だったのか。働かなければ食ってはいけないし、霞を食べて生きていけるような人間でもない。衣食住を満たすために必要なことだったのは事実だ。しかし、それ以上に私にとって重要な居場所だし、私が社会との接点を持ち、自分以外の誰かに貢献できる重要な役割を持っていた。
仕事のすべてが心地いいとは思わない。しかし私にとって、仕事は聖域のようなものでもあった。いわゆる性的な発言、物理的な接触を含まない不愉快なセクハラハラスメントなども忘れればいいことかもしれないと思う人は多いかもしれない。しかし、私の脳裏に焼き付いた屈辱、そして私の聖域を蹂躙したという事実は、私は例え筆を持つことが出来なくなるほど衰えたとしても、絶対に忘れないし、許せないと思う。
これを執着、狂気、執念と捉える人がいるのも当然だが、表層的な部分のみ理解し、思いを馳せずに「放置すればいい」と言うのはあまりにも浅はかだと思う。もちろん時間が経過すれば傷も言える部分はあるだろう。しかし、傷跡の表層を何かがそっと撫でた時、また再発するかもしれない感情の波、それらを全て考慮すると、「忘れればいい」という言葉は暴力的だ。
だから私はもし、これから先同じような痛みを抱えた人がいたら、決して忘れるようにとは言わないと思う。もちろん私も囚われてはいけないということは理解している。己の感情の囚人になってはいけない。しかし、言葉ではなく、何かもっと別な方法で、その人が囚われられないように手を差し伸べる人間でありたいとふと思うのだ。