日記:本当に禍福は「糾える縄の如し」なのか?
起きて早々頭が痛い。今までこんなに頭が痛いことはあっただろうか。それとも今痛いから痛みが更新されているのであろうか。一つ言えるとすれば、僕は体が丈夫で、滅多に頭痛を催す人間ではないのだ。
それでも痛いものは痛い。こういう時は何をすべきだろうか、他の痛みと同様に、都合よく神に願うのか? それが無意味だと知ってもそうしたくなる。局地的な痛みは災害である。頭を下げて、ただ過ぎ去るのを待つしかないのだ。その下げる頭が痛いのだが。
こんなことを考えている間もずっと痛い。何か別のことで気を紛らわせるような余裕はない。携帯で頭痛の緩和方法を調べたところで焼け石に水だろう。痛みとは逃れることができないゆえに痛みなのだ。
そうして20分くらい頭を押さえて蹲っているとようやく痛みは引いた。しかし台風一過の青空とはいかない。一度痛みを経験すると、再発してしまわないか、次にいつ起こるのかわからなくて怯える羽目になる。
そうしておどおどとしているうちに行かなければならない用事を思い出す。今日は大学の講義があるんだった。1限だけだが、終わると夜になってしまうので面倒である。もうこの時期の夜は寒いし、寒さで頭痛を再発させてしまわないか心配だ。
うっかり休講にでもなればいいのに――と自棄になってポータルサイトにアクセスすると、なんと本当に休講になっていた。奇跡とは起こるものである。
こんな一連の出来事を1時間あまりで体験した僕は、「禍福は糾える縄の如し」という言葉を思い出した。人の幸不幸は編み込まれている縄のように交互に、かつ表裏一体になっているのだからいちいち一喜一憂しなくてもよい、というありがたいお言葉である。
しかし本当にそうなのだろうか? 禍福は、幸不幸は、縄のように「交互」に発生するものだろうか。
僕は絶対に違うと思っている。明らかに不幸の方が多い。いいとこ、幸不幸の割合はピアノの黒鍵と白鍵くらいの比率である。
もちろん、それは僕が悲観的だからかもしれないし、人によってはきちんと交互に来ているばかりか、黒鍵と白鍵が逆転しているくらいの人もいるかもしれない。しかし、あたかも社会に通底する格言かのように振る舞う言葉ではないと思うのだ。
ブータンという国がある。ヒマラヤ山脈の東端にある文明も発達していない小国だ。この国はちょうど10年前、2013年に国連が発表した「世界幸福度ランキング」で北欧諸国に次ぐ8位にランクインしたことで話題となった。この話は有名なので、諸君も聞いたことがあるだろう。
しかし、今はそうではない。2019年には95位、2020年以降ではランキングに登場すらしていないなど、見る影もない有様である。
こういった背景には、社会情勢がある。ブータンは、かつては江戸時代の日本のように鎖国国家であり、海外の情報が殆どシャットアウトされていた。
ところが、近年のグローバル化によって他国の情報が入るようになり、文明度の比較も可視化された。その結果、順位を落としたのである。
何とも皮肉なものである。無知こそが幸せだったのだ。そういえば最近『ONE PIECE』のワノ国編の終盤で緑牛が近いことを言ってたな。まあそれはいいか。
とかく、「禍福は糾える縄の如し」というのは物事の尺度を測るものでしかなく、万国万人に通底する概念とは言い難い。そもそも幸福度が高くても低くても、その人にとっての禍福と、客観的に判断した禍福ではまるで違うのだ。いくら衣食住が足りていても、大金持ちでも、富、名声、力、この世の全てを手に入れた男でも、手の届かない幸せはそこら中にある。結局のところ、禍福の基準はその人次第でしかなく、自分が充足していればそれ以上のことはない。我々はこの状態を、どのように割り切って生きていけばいいのだろうか。
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