ネオンの海に夢見た先にあったもの
物心が付いた頃は幼稚園児だったか。
その頃から父の車の中で流れるカセットテープの音楽が好きだった。
そのカセットテープはたくさんの本数があったが、どれも総じて演歌は少なく、当時の昭和歌謡やポップス、グループサウンズ、ロックなどがメインだった。
社会的なトレンドや流行りの歌に疎い父親に代わって、叔父が父のためにお勧めの曲を詰め込んだカセットテープたちだ。
今でこそあまりそれらの曲を聴く機会は少なくなってしまったけれど、今でも幾らかは覚えいるし、世代の違う年上の方の前でアコギで弾き語りなんてすると「世代違うのにそんな歌を知っているの!?」と驚かれることもある。
当時の私が持っていた子供ならではの柔らかい感受性や脳細胞で、カセットテープから吸収したものは計り知れないと思う。
そんなこんなで見付けたファーストテイク。
世代こそ違えど、私は彼と同郷である。
幼心に私に東京への強い憧れがあったのはこの曲も理由の一つと認識している。
だって「花の大東京」なんだぜ。
テーマパーク並みにキラキラしてる場所だと思っちゃうじゃない。
芝生の公園と、動物園に併設された小さな遊園地しか知らない子供には、とにかくもう東京という場所は自分の想像力の限り以上にキラキラしている場所という認識だったわけさ。
(大人になった今改めてこの曲を聴くと東京が憧れや夢だけで食っていけるような安易な場所ではないというのは分かるのだが…まぁそれはさておき。)
そして私は過保護というか過干渉というかモンペ気質の母親との折り合いが悪く、大学進学を機に関西で一人暮らしをした。
一人暮らしは良くも悪くも自由だったし、良くも悪くも親に守られていたことを痛感した。
急な環境の変化や対人関係から鬱になり通院し、闘病し、ひょんなことから投薬治療を辞め(私は自己判断で辞めたけど本来はお医者さんと相談してくださいね!)、大学を卒業することになってしまったが、まだまだこのときは就職氷河期の名残で私は内定0のまま卒業式を迎えた。
周りの友人たちは内定を勝ち取って意気高らかに春を迎えていく中で、さて、私はどうやって社会に羽ばたいていこうかと思案した。
当時の私は無理矢理、それも急なことで鬱による通院を辞めたのだけれど、それでも25歳まで生きられる自信が無かったので、それなら残された数年は最後のつもりで好きなことでもやろうかと思って突発的に上京した。
当時お付き合いしていた彼氏とは関西↔️東京での遠距離恋愛になった。
上京前に仕事を探そうと、全国的に展開されていた小売業の店舗の契約社員として面接を受けた。
本来はそのような求人の枠は無かったのだが、どうしても人生の最後に於いて後悔は少なくしておきたかった。
「ここで働ければ、身も心も綺麗なお姉さんになれそう」という憧れだけで飛び込み、無事に雇って頂けることになった。
そこから部屋を決め、引っ越しを終え、池袋の店舗での勤務初日を迎えた。
関西の田舎から飛び込んで来た私はその都会のあまりの人の多さに圧倒された。朝から人が多すぎる。
流れ行く人の流れの中で勤務しなければいけないのに、人酔いをしてしまい勤務時間中なのに倒れた。
クビだな、と思った。
それでも店長は私をクビにはしなかった。
その後も「変わった子だね」と周りから言われはしたものの、特に何か嫌がらせをされるとかイビられることもなかった。
スタッフ間でプライベートで遊んだり食事をしたりと、ありがたいことに人に恵まれていた。
「この会社で働きたい」と思って突発的に上京したものだから、家は最低限度の借家だった。
大学時代に親が私を心配して借りてくれたオートロック付きのレディースマンションからは180度方向転換した、木造平屋のボロボロの建物だった。
それでもテスター落ちした商品を当時は持って帰ることができたので、勤務する度に部屋の中は私の好きなもので溢れていたし幸せだった。
東京の激務の中に身を置いて約1年が経ち、いつの間にか私は「もしかしたら25歳以降もこのままの生活なんじゃね?」と漠然と思い始めた。
上京して半年くらいした頃だったか、当時お付き合いしていた彼氏がそのボロボロの木造平屋の私のお城に転がり込んで来た。
私の生活環境が再び大きく変わった。
彼氏はフリーターだったのにも関わらず、何のバイトも探そうとしなかった。
家賃も光熱費も食費も生活費も私持ちだった。
1つの面接を受けるまでは私の倍以上の時間を要したし、不採用通知を受けてからの気持ちの建て直しも時間を要した。
別にそれが彼のペースなら個人的なことまで口出しするべきではないのだが、米も炊けない、洗濯も出来ない、掃除も出来ない、私が働いている時にバイクを乗り回すガソリン代も私持ちとか、馬鹿馬鹿しかった。
クタクタになって23時前に帰宅するのに、そこから食事を作って食器洗って風呂洗って…なんだから。
愛はいつしか消えていて情になっていた。
本気で死ぬ気になったことの無い人間と生活してみて、残された人生の時間への覚悟の無さを思い知った。
死をボンヤリ見つめている私でさえ日々朝から晩まで接客スマイルで働いて日々の生活を送るための資金を調達しているのに、のうのうと生きているお前は私からこれ以上何を奪うのか。
彼氏の親御さんが病気に伏したという知らせ受け、彼氏は一旦関西の実家に帰った。
私のボロボロなお城に平穏が戻ってきたが、このまま彼と関係を続けるのはお互いに向上できないと思った。
人事異動で春に店長が変わった。
新しい店長の元で頑張ろうと思ったが、若すぎた私は上手く立ち回れず退職を選んだ。
すっかり忘れかけていた「挫折」「絶望」「孤独」がまたやって来た。
23歳の終わり頃だった。
25歳以降に描いていた「このままじゃね?」の平和な生活は私にはもう残されていなかった。
とりあえず九州の自然、山、海、友達、家族に触れようとUターンすることした。
例の彼氏とは連絡は取っていたものの、もう会うことはないと予想していた。
半年くらいかけて別のバイトで引っ越し資金を貯め、九州に帰った。
大学時代に鬱で死にたいと親を悲しませた過去のある私だったので、親も「頑張ったね」と労ってくれた。(1週間くらいだけ)
やはり親と折り合いが悪いことに代わりはなかったので、さらにここでも引っ越し資金を蓄える計画を立てる必要があった。
私の初めての上京は約1年だったが、やはり東京は時間の流れが目まぐるしく感じた。
半年間の同棲生活も息苦しかった。
身の周りに自然は無く、ビル群の林の中でただ人間の社会の歯車を回すだけの生活のように思えた。
長渕剛の歌のようにキラキラしているのは表面的で、裏では皆必死に歯を食い縛って取り繕っている。それが私の感じた東京だった。
九州の田舎に帰り、私はそこで小さな会社の面接を受けた。正社員になった。
実家に越してきて半年くらい経っていた。
持ち前の正義感と責任感で、私は年中無休の店舗の店長に配属された。
スタッフは私以外に正社員1人と時短勤務のパート1人。以上。
この2.5人で年中無休の店舗の営業~閉めを回さなければいけなかった。
休憩なんて行けず、レジカウンターにしゃんがんで持ってきたオニギリやお茶を口に入れた。
トイレもゆっくり行けず、メイク直しも出来ず、身体を壊すのに時間はかからなかった。
幸いにもまだ実家から引っ越しができておらず家族がいたから助かったが、私は年末のある日めちゃくちゃ酷い腹痛で夜間病院に連れて行ってもらった。
過労とストレスが原因ではないか?とのことでその夜は点滴で様子を見て貰ったが、後日
別の病院で卵巣の管が捻れているとかが判明した。もっと酷ければ手術だったらしい。
もうこんな生活は無理だと思い、その日付けで退職した。
後にこの会社は私のいた店舗も別の店舗も閉めることになるのだが、まぁそれはそうでしょうね。
その頃には彼氏とはほぼ疎遠になっていた。
東京の木造平屋から彼が出ていって1年くらい経っていた。
共通の友人から珍しく電話が来たので、電話嫌いな私が珍しく電話に出てみると、
「MIZUHOの彼氏が私の住んでいる近所で若い女の子と手を繋いで歩いてるのを見たけど、相手の子…制服着ていたから女子高生だと思うんだよね。人違いだったらゴメン」
と早口な声が聞こえてきた。電話をくれた彼女には「わざわざ教えてくれてありがとう、確認取って終わりにするよ」とだけ伝えて切った。
彼は私とタメだったので成人はしていた。
23だか24だかの年齢にもなって制服を着た女の子と手を繋いで歩いているなんて…。
本人ではないことを祈りたかった。
恋愛の終わりは「なぁなぁ」に濁していてはいけないと学んだ。自分の知らないところで自分の友人・知人を巻き込むのは御免だ。
終話ボタンを押した指のまま、今度は通話ボタンを押した。
「MIZUHO、久しぶりだね!元気だった?」
屈託の無い、かつて愛した声に私は冷やかに事実確認をした上で終わりを告げた。
最低で最高な私の初めての短い花の大東京生活は完全に終わった。サヨナラ青春。
それから時が少し経ち、25歳になった私は家族経営の小さな工場で働いていた。正社員だった。
たまに残業もしたが9:00~18:00の週5勤務で実家からもそう遠く離れていない場所に小さな部屋を借りた。
八百屋が近くにあり、ファミレスも徒歩圏内にあった。
薄給をやりくりしながら週に2日ほど興味のあることを習い、異業種交流会や街コンなどに参加などもした。
新しい彼氏も出来た。
このままの生活が続けば幸せなのだろうと思っていた。
30歳という節目を目前に控えた時に、ふと「25歳まで生きられたし、30歳まで生きられそうじゃん」と思った。
自分が40歳になる未来は相変わらず見えなかったけれど、新しい彼もやはりフリーターでヒモ気質の持ち主だったこともあり、冷静に「こんな人生じゃダメだな」と思った。
彼だけが悪いんじゃない。
私が変わらなくちゃ意味がないんだ。
29歳の頃に
「もう一度、今度こそ歯を食い縛ってしがみついてみせる」
と婚活を言い訳にして上京した。
特に上京してビッグになってやる!とか大層な夢はなかったけれど、定職に就いているマトモな価値観の人と結婚できれば御の字だと思っていた。
二度目の上京は勝手が分かっていたので、あまり気負うこともなった。
上京してからでもバイトは見付かった。
初めての派遣社員だった。
度重なる引っ越しでお金が無かったので、部屋は駅から徒歩30分以上かかる事故物件に住んだ。
自分で決めた部屋だから、特に恐怖心もなく、自分のこだわりのつまった部屋作りが出来た。
前回の木造平屋のボロ屋敷の上をいくボロさの木造平屋の建物で、隙間風とか戸の建付けの悪さとか笑うしか無かった。
まぁ、とりあえず風雨さえ凌げれば良いという考えだったので気にはならなかった。
改めて2回目の「東京都民」になれた。
私の小さな野望は二度目こそ簡単には手放すものかと思った。
そう、私の夢は「東京に住むこと」そのものだったのだ。
何も知名度のある大手企業に勤めるとか、有名になってチヤホヤされることではなかった。
些細な、本当に些細な、憧れを実現することだけだった。
坂の勾配が急だったので自転車はあってもなくても変わらなかった。
ただ毎日徒歩で30分以上、疲れているときは45分くらいかけて歩いて帰ってでも苦痛ではなかった。
自分の時間とお金を自分だけに使うことが出来ることが本当に開放的な気分だった。
端から見れば、こんなボロな家に住む私は可哀想なのかもしれない。
端から見れば、もっと高くても駅チカな物件の方が便利なのかもしれない。
端から見れば、私は変わり者に見えるのかもしれない。
そんなことを思いながら、時々鳴るラップ音すら「レアな体験できてる♡」と思って住み続けた。
31歳になる前、とある企業の販売員として2回目の派遣先変更があった頃、突如「老朽化に伴う退去のお願い」が通達された。
築60年くらいだったか、耐震性の面で改築が必要だったらしい。
工事期間中、大家さんの別の持ち家に一時的に住むか、自分で新しく部屋を探して住むか、どちらかを選ぶことが出来た。
私は後者を選んだ。引っ越し費用は大家さん持ちだったので建て替えして、引っ越し後に請求する流れだった。
それもなかなか体験できないことの1つだと思うので、今では良い想い出だ。
さて、その頃には「家賃が安ければ事故物件でもオモシロ物件でも何でもいいや♫」という考えだったので、隣の区の物件を選んだ。
間取りが三角形みたいなビルで、角部屋の台形の部屋だった。
1階は何かの工場兼事務所、2階が大家さん宅、3階が借家のお部屋が数部屋入っているこぢんまりしたマンションだった。
私の他に住んでいる住民がいなかったのと、女性が住んでくれたことが嬉しかったのとで、大家さん夫婦は頻繁に私の部屋の前にやって来ては鉢植えの花やらお菓子やらを私にくれるサービスっぷりだった。
私はもっと孤独と仲良しな生活を送るつもりだったのだが。
台形の部屋にはベランダがあった。
窓を開けると目の前には高速道路がちょうど同じ高さにあり、防音対策の半透明な防音壁の中をトラックや自家用車がビュンビュンと通っていた。
「これまた珍しい立地♡」と特に音を煩わしく思ったことはなかった。慣れてしまえばどんな場所でも住めば都だから。
引っ越しして僅か数ヶ月、私はひょんなことで知り合ったトラックドライバーと話す機会があった。
後の夫となるこの男性。
私の一人暮らしの部屋に来たいとのことだったが、生憎ちょっと間取りが落ち着かない台形のヘンテコハウスだし、狭いし、大家さんの距離感が親子に近いソレで聞き耳を立てているかもしれないのでお断りした。
代わりに「多分、アナタは勤務中に私の部屋の前を何度も通りすぎているよ」と伝えた。
ベランダから見える高速道路の写真を添えてLINEで送ると、「○○(地域名)!!その建物は知ってる!防音壁があっても分かるよ、その変な形のマンション!」と即答・特定された。
借家の契約書には2年更新の文字があったので気が引けたが、結婚することになったからにはここにあと1年半も1人で住むことは出来ない。
平成後期とは言え、家賃は茶封筒で手渡しの大家さんだった。
実母とは違う距離感で、時々実母よりやり過ぎなくらい気をかけてくれた。
私、そんな構ってちゃんじゃないはずなんだけど。ありがたいことです。
菓子折りを持って、階段を降りて大家さんに結婚の報告と退去の報告を済ませた。
めでたいことだからと、特にお咎めも無く違約金なども発生しなかった。
ただ、笑っているのに淋しそうな目をした老夫婦のことは今でも忘れられない。
半年後、私は苗字が変わった。
都民から千葉県民になった。
派遣元の企業は事業縮小をすることになり、派遣先から撤退・私は会社都合で退職した。
目まぐるしく変わりゆく人生の中で、都会の喧騒に嫌気が差したこともある。
子供が欲しくてもなかなか出来なかった。
思い詰めた先で不妊専門医にかかった。
夫婦で検査を進めて、私たち夫婦は自然には子供を産めないと分かった。
TESEやICSIにスムーズに移行できたのは都会に近い場所に住んでいたからこそだと思う。
私の身体から取り出した21個の卵子は分割が進まず空に還った。
夫の身体から取り出した精巣内精子も凍結延期せず空に還った。
夫婦で喧嘩の絶えない日々を送っていたこともある。
徐々に話し合いの頻度を増やした。
特別養子縁組を目指した。
自治体の里親研修を受けて里親登録をし、一時保護のお子さんと数ヶ月暮らした。
夫の人事異動で千葉県民から都民に戻った。
子供を産み育てることを想定していた結婚生活の設計から、養子縁組をして子育てをする未来を夢見て、今では夫婦2人のDINKsで生きていくことを選んだ。
いまのところ、夫婦共に東京都での里親登録はする予定はない。
楽しかったことより泣いたことの方が多かった気もする。
九州の青い空の下で暮らしていたらきっと違った人生だったことだろう。
こんなに波瀾万丈ではなかったと思う。
けれど、波瀾万丈でドタバタしているほうが私は今生きているんだな!という実感がある。多分私にHSSの刺激を好む性質があるからだろうが…。
何はともあれ、きっと私が30歳になる直前で
「このままじゃダメだ、私がもっと変わらなくちゃ!」
と思って上京したからある今なんだろう。
1つでも何かの歯車が欠けていたりタイミングが違っていれば、今ときっと違っていたね。
相変わらず、40代とか50代になった自分は想像もできず。
60歳くらいでポックリ寝ているときに逝きたいわ…という漠然とした未来しか描けないけれど上京して視野を広く持てたり、人と色々な形で繋がれたり、大小多くの経験が積めたことは私の無形財産でしょう。
苦しくても、よっぽどのことがない限り私は東京への「憧れ」を叶えていきたいよ。
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