
ムーミンブームの火付け役~「ムーミン・コミックス」の歴史①
今年はムーミン小説80周年。今なお世界中に愛され、ファンを増やし続けているムーミンの世界。
しかし、1945年にひっそりと販売された「小さなトロールと大きな洪水」は、当時ほとんど話題にもならなかった。
ムーミンが今日の絶大な人気を得るには様々な経緯があるが、それを語るうえで欠かせないのが、1954年に開始した新聞連載漫画、通称「ムーミン・コミックス」だ。異国の地イギリスに進出した愛らしいムーミンキャラクターたちは、瞬く間に読者を魅了し、世界中にはばたいた。
ここでは、ムーミン・コミックス誕生の経緯、コミックスの特徴、ムーミンブームに伴う作者トーベ・ヤンソンの苦悩、そして後年のムーミン作品に与えた影響等について、簡単に紹介したい。
はじめに:原初のムーミン漫画
一般的に「ムーミン・コミックス」といえば、1954年にイギリスの新聞紙で開始した連載漫画を指す。しかし、それより前にトーベは、別の新聞紙でムーミンの漫画を描いていた。1947年から1948年にかけて、ヘルシンキの日刊紙「ニィ・ティド」にて連載された「ムーミントロールと地球の終わり」である。
こちらは小説「ムーミン谷の彗星」を原作としつつ、当時未発表だった「たのしいムーミン一家」の登場人物が先んじて登場したり、終盤でUFOのような形の救命ボート(ムーミン1号・2号)に乗ったりする等、小説とは違った楽しみ方ができる漫画となっている。しかし、ムーミンパパが王党派の新聞を読んでいること等に対しクレームが寄せられ、約1年間を予定していた連載は半年で打ち切りとなってしまった。
ムーミンが連載漫画の世界で市民権を得るためには、それから約7年の時を要することとなる。
英国からの便り~連載開始まで
英国におけるムーミン物語の需要
ムーミン物語の英訳版がはじめて刊行されたのは、1950年のことだった。「たのしいムーミン一家」は "Finn Family Moomintroll" のタイトルでイギリスデビューを果たし、瞬く間に読者の心をつかんだ。さらにその翌年には、英訳版「ムーミン谷の彗星」が刊行され、こちらも大きな人気を博した。

この、イギリスにおけるムーミン物語の受容に目を付けたのが、ロンドンの大手コンツェルン「アソシエイティッド・ニュースペイパーズ」(以降、ANと表記)社だった。
1952年1月、AN社の役員チャールズ・サットンから、トーベのもとに手紙が届いた。ロンドンの新聞紙におけるムーミン漫画連載の打診だった。
「あなたのムーミン家族は興味ぶかい連載漫画になるのではないかと、わたしたちは考えました。(中略)あの魅力あふれる生きものたちを連載漫画の枠に移しかえるならば、わたしたちのいわゆる「文明化された生活様式」への諷刺として使えるのではないかと思っているのです。」
筑摩書房(2011)
p. 27より引用
以前から連載の構想を立てており、ムーミンの海外進出も視野に入れていたトーベにとって、願ってもないチャンスだった。これで経済的に余裕ができて、画業の時間も確保できる。トーベはすぐさまサットンに返事をし、ここから長きにわたる両者のやり取りが始まった。
サットン、ヘルシンキ来訪~契約締結
その3ヶ月後、メーデーの前日の4月30日、サットンはロンドンからヘルシンキへと、ムーミンの新聞連載の契約締結のためにやってきた。
フィンランドでは、5月1日のメーデーとその前夜祭に盛大なお祭り騒ぎが繰り広げられる。交渉の場はホテルからトーベのアトリエへと移り、そこにトーベの友人も加わり、夜通しパーティが開催された。
と同時に、契約内容の最終確認がおこなわれた。契約期間は7年。月曜から土曜まで週6日の夕刊紙に、毎回3~4コマ(ときに2コマ)を描くこと。他紙でも連載されることになったら、その分トーベに報酬が入ること。そして、トーベが連載を降りたとしても、AN社には別の漫画家を立てて連載を継続する権利があるということ。
AN社と7年間の新聞連載の契約を締結したトーベは、自身にとって初めての「安定した仕事」を手に入れることとなった。
連載準備~連載開始
契約締結から連載開始の1954年9月までの2年余り、トーベとサットンの間では綿密な連載準備がおこなわれた。その間、AN社はトーベを直接ロンドンに呼び寄せ、連載漫画の指導をおこなった(ロンドンの仕事場でトーベにあてがわれた部屋はかつて別の漫画家が使用していたが、その漫画家は精神を患い入院したという)。
新聞連載に穴をあけることはできない。作者の突然の体調不良やスランプを見越して、少なくとも実際に新聞に掲載される半年前には、原稿を仕上げておかなければならない。しかも連載準備と並行して、トーベは「ムーミン谷の夏まつり」(1954年初版)の執筆や絵画制作等にも取り組んでいた。あまりにも膨大な仕事量だったが、トーベは仕事の場が広がっていくことを喜んでいた。
連載漫画の世界では新米に近いトーベだったが、AN社の細かい注文を着実にこなし、漫画のコツをつかんでいった。
そして1954年9月、当時世界一の発行部数を誇っていたロンドンの夕刊紙「イヴニング・ニューズ」にて、ムーミンの連載漫画が開始された。

連載上の決まり・作風
連載の流れ
前述の通り1回につき主に3~4コマが新聞紙に掲載され、約3ヶ月にわたって1つのエピソードが展開される(ちなみにトーベが手掛けたエピソードの中で、最長は「黄金のしっぽ」の109回、最短は「恋するムーミン」の51回である)。
新聞連載では、毎回――つまりたった3、4コマの中でも――小さな「オチ」をつけることが肝要だった。毎回読者を惹き付け、次回への期待を持たせる。本とは違い新聞紙においては、パッと読んで内容が理解できるよう、多すぎる台詞や複雑なストーリーは避けなければならない。だからといって、稚拙なストーリーでは当然大人の読者の心を引くことはできない。一筋縄ではいかない要求だったが、トーベは見事に捌いてみせた。
連載漫画においては、季節にも気を配らなければならない。夏には夏の物語が、冬には冬の物語が掲載されるよう、あらかじめ計算して描く必要がある。
前述の通り、実際に新聞に掲載される半年前には原稿を完成させなければならない。そのため、冬に掲載されるエピソードは夏に、夏に掲載されるエピソードは前年の冬に、といった具合に、掲載時期と作中の季節にズレが生じないよう、緻密な計算の上で執筆作業がおこなわれた。小説シリーズでは冬眠をしているムーミンたちも、新聞連載では冬の活動を余儀なくされた。
連載上のルール
また英国の新聞紙で漫画を連載する上で、トーベには守らなければならない表現上のルールがあった。
その1つが、性的な表現は避けること。ムーミン・コミックスにおけるスノークのおじょうさんやミムラは惚れっぽく、頻繁に異性に恋をしているが、性的な描写は存在しない。無害で上品な恋愛要素は物語のスパイスになるが、露骨な性描写は許されない。もっとも、ムーミンの物語で性に関する心配は無用といえるだろうが。
また、品のないジョークもタブーとされた。「ムーミンパパの灯台守」というエピソードでは、小説のネタを思いついたムーミンパパがタイプライターの紙の代わりにトイレットペーパーに文字を打ち込む、というアイデアがあったが、トイレットペーパーは不適切として却下された。

その他に、政治や英国王室をからかうこと、死を弄ぶこと等も連載漫画では禁止された。
外見の差別化
今でこそお馴染みとなっている、ムーミンパパのシルクハットとムーミンママのエプロンは、この新聞連載から描かれるようになった。
初期のムーミン小説の挿絵においては、パパとママは息子のムーミントロール同様、何も身にまとっていなかった。それでも文章を読めば、キャラクター判別することができた。しかし、台詞が限られ絵が主となる漫画では、同じ外見の3人のキャラクターを見分けることは難しい(ママはハンドバックを持っているためわかりやすいが)。
そこで、チャールズ・サットンのアイデアにより、パパにシルクハットを、ママにエプロンを着用させることになった。同時期に執筆された「ムーミン谷の夏まつり」にもこのスタイルは取り入れられ、以降のムーミン小説では2人の特徴として確立している。
ここからは、「ムーミン・コミックス」の他国への広がり、弟ラルスの協力、トーベの苦悩と連載終了、コミックスの影響等について話していきたい……が、案の定非常に長い話となってしまったため、一旦ここで記事を終了したい。
続きは「「ムーミン・コミックス」の歴史②」を書き終えるまでお待ちください。
参考文献:
冨原眞弓. ムーミンのふたつの顔. 筑摩書房, 2011, 240p.
トーベ・ヤンソン, ラルス・ヤンソン. ムーミン・コミックス 第14巻 ひとりぼっちのムーミン. 冨原眞弓. 筑摩書房, 2001, 96p.
トーベ・ヤンソン, ラルス・ヤンソン. 英語対訳 ムーミン・コミックス. 冨原眞弓, 安達 まみ. 筑摩書房, 2020, 208p.
ボエル・ヴェスティン. トーベ・ヤンソン 人生、芸術、言葉. 畑中麻紀 森下圭子訳. フィルムアート社, 2021, 656p.
ポール・グラヴェット. ムーミンとトーベ・ヤンソン 自由を愛した芸術家、その仕事と人生. 森下圭子, 安江幸子. 河出書房新社, 2022, 112p.