
【怪談】逆手
これはMさん30代女性から聞いたお話。
今から10数年前、Mさんは訪問介護の仕事をしていた。
昼頃に利用者のお宅へ行き、利用者のご家族とタッチ交代で世話をし、夕方にご家族が戻られるとまたタッチ交代で撤収するというものだった。
利用者は70代の女性(Aさんとする)で認知症が進んでおりちょっとした奇行、会話が嚙み合わない、あと片足が不自由で転倒などの危険があった。
しかし本人の意識はハッキリとしており、ご家族が止めようとしても家事をしたがって家の中を動き回る。
そのせいで転倒、また奇行による面倒が多いための利用となっていた。
ご家族が「私が帰ってくるまで雑談してくれてるだけで結構です。そうすればあまり動き回ることもないと思うので。」と仰られており、本当にトイレやお茶汲みなど軽度の介助と世間話をしながらお茶を飲むだけの気軽な現場だったそうだ。
Aさんの訪問介護を始めてから数か月、MさんはAさんの話題の端々に奇妙なものがある事に気づいた。
認知症があるので支離滅裂だったり突拍子もないことを話し出したり、話が飛んだり時間の概念が壊れていることだってあった。
しかし、稀にふと、手を掴まれる、という話をすることがあったのだ。
Aさんは「もうトシだしねぇ、お迎えでも来てるのかしら。」と笑って言っていたがMさんは気味が悪かった。
詳しく尋ねてみても、いつどこでという答えまではたどり着く事が出来ず、また話が突然変わったりで要領を得ない。
不気味だなと思いつつもMさんは認知症の症状だと自分を納得させ特に気に留めずにいた。
それから更に時が経ったある日、いつも通りMさんはAさんとお茶をしていたがMさんはトイレの為一瞬席を離れた。
Aさんは片足が不便だし玄関にも窓にも施錠している、勝手にどこかに行くことはないだろうと思っていたからだ。
そしてMさんがトイレから戻ると、先ほどまでリビングに座ってお茶を飲んでいたAさんの姿がそこには無かった。
Mさんは一気に青ざめ、鼓動が大きく早くなり視界がボヤけるのを感じた。
勝手に外に出た?徘徊?事故にあったらどうしよう?私の責任?転倒して頭でも打ってたら…
なんて不安が瞬時に駆け巡る。
Mさんは「Aさん!?どこですが!?」と叫ぶが返事がない。
しかし席を離れて数刻、あの足で遠くに行ける訳がない。
外には出ていないはずだ、まだ家の中にいるなら足音などの気配があるはず。
Mさんは耳を澄ませて周りの音を聞いた。
すると、リビングのすぐ隣の和室からAさんのボソボソという話声が聞こえた。
すぐさま「Aさん!?」と呼びかけて和室へ走った。
勢いよく襖をあけるとAさんは奥の押し入れの前に立っており、襖をあけたときのピシャッという音にビクッと驚いてこちらを振り返った。
Mさんは「Aさぁ~ん…」と安堵の声で呼びかけた。
と同時にケガはないか、何か撒き散らしたり壊したりしていないかとAさん本人と和室に目を配らせた。
そこで違和感に気付いた。
部屋自体は問題ない。
Aさんは押し入れの前に立っており体はほぼ押し入れを向いて顔だけこちらに向けている状態。
襖の開けた音に驚いた顔をしていた。
そして手は「小さく前へならえ」のように肘をまげてまるで幽霊ポーズのような角度だった。
その前へ突き出ているAさんの左手首を何かが掴んでいる。
それは少し開いた押し入れから伸びた手だった。
その手は壮年の男性の手のようにガッシリしていたが皺が目立ち、爪が少し汚れていた。
親指の爪は縦に茶色い線が数本入り、爪の縁もまた茶色いシミが目立っていた。
何より不気味なのは、手の出方だった。
押し入れが開いていたのは向かって右側の戸だったが、そこから男の右手が伸びて押し入れ前真ん中にいたAさんの左手を掴んでいた。
押し入れ右側の戸が開いているんだから、押し入れの中の男は左手を出せば良い。
隙間から手を出す際は一番まっすぐ伸ばしやすい手を出すはずだ。
動物園の檻からサルがこちらに手を伸ばすように。
しかしその腕は違った。右手が出ていたのだ。
不気味に感じたのはその腕の出方と角度だ。
右手が出ているという事は、つまり押し入れの中の男はこちらに背を向けている状態なのだ。
Mさん曰く、リレーのバトンを待っている走者のような態勢でないと無理。という事だった。
その背中を向けて無理やり右手を伸ばしAさんの手首を掴んでいる手は逆手だったそうだ。
Mさんが「えっ!?なに!?」と呟くと、その腕は慌てる様子もなくAさんの腕を離し、ぬるりと押し入れに引っ込んだ。
そして勢いよく押し入れの戸をスパーン!と中から閉じた。
Aさんはその音にまたビクッと驚き、押し入れの方に向き直し呆然としていた。
Mさんは変質者かと思いAさんを引張りリビングに移動、すぐに警察とご家族に連絡し家の外でどちらかが来てくれるのを待った。
その間にAさんにMさんは問い詰めた。「さっきのは何!?誰と話していたの!?」
しかしAさんはわからない…と答えるばかりで、怯えているような混乱しているような呆然としたままだった。
Aさんの背中をさすりながら、何者かが家から飛び出してくるのではという恐怖で玄関を凝視していると先に来たのは警察だった。
事情を話し、中を調べてもらったが何も異常は無かった。
Mさんもこの家に通って数ヶ月、押し入れの中の様子もわかっていたし、うすうすはそうだろうなと思っていたが、警察と押し入れの中を確認したらそこは布団やらなにやらで天井いっぱいまで荷物が詰まっており、とても人が入るスペースなどは無かった。
その後はご家族も戻り、Mさんは帰宅した。
後日ご家族から捜索の結果を聞かせられたが、何者かに侵入された形跡も逃走した形跡も無かったそうだ。
Mさんはその後もAさんのお宅を訪れたそうだが、利用をやめられるとの事でそれっきりなったとの事だ。
その家に何か曰くがあったかどうかは調べてもいないという。