「障害は個性だよ」なんて口が裂けても言えないし綺麗事だと思う
また相変わらず多方面に怒られそうなことを書く。
私が、ずっと、あまり好きではない言葉がある。
「障害は個性」
という、よく耳にする言葉だ。
少しずつ、現代社会においてさまざまな「障害」というものが認知されるようになり、いろんな法律が整備されている。
すごい素晴らしい流れだとは思うし、これがうまくいけば、いろんな障害を抱える人が生きやすくなればいいなと思う。
でもなんというか、どこかに私は気持ち悪さを感じる。
余談であるが、私は病院などで診断されているような「障害」を正直持っていない。
うつ病や自律神経失調症などはあるが、人に説明するような「障害」は持っていない。
ただ、母親が広汎性発達障害を抱えているので、それに関していえば、私は「障害者の家族」「障害者と生まれたときからかかわった人」という立ち位置にはなると思うので、そういう見方からしてもらえると助かる。
私の感覚でいうと、正直「障害は個性」というのは、障害を知らない人が言えることなんじゃないかと思う。
「綺麗事」と思うし、正直そんな「個性」なんかで片付けていいような生ぬるいものではないと思っている。
完全に私の体験になるのだが。
私の母は広汎性発達障害と診断されていて、ADHDとASDのどちらの症状もある。
障害名を言ってもわからないと思うが、人に説明してわかりやすい母親の症状を一部取り上げれば、
・困惑したときにパニックになったり怒ったりしたら家族に叫んで怒鳴り散らす(環境の変化についていけずにパニックになる)
・人が興味のないことでも自分の好きな話を永遠に話し続けてしまう(共感することが難しいので、こちらから話を振っても人の話は聞いてくれない)
この二つはわりとイメージしやすいのかもしれないと思う。
だが、発達障害の人と関わったことがない人が、この症状を聞いたときに、どれぐらい正しくイメージできるだろうか。
たとえば一つ目の、パニックになったときに怒鳴り散らす、というものについて。
特に父と言い合いになったときはかなりひどいし、娘である私に対してだと、「だからアンタダメなんよ」「ほんと迷惑な子やね」と勢いで言ってしまう。
それが何度も何度も繰り返されると、もう父も私も母親に対して、「反論しても無駄だ」という考えに陥ってしまい、結果として言い返すことが出来なくなってしまう。
父は結婚当初からこのパニックと付き合ってきたそうなので、ストレスで胃をかなりやってしまい、今は胃薬が手放せないらしい。
私も母とのかかわりの不安定さから、自己肯定感が損なわれたり、怒鳴り声に対して委縮してしまう癖などがついている。
二つ目のことに関してもかなりつらい。
家に帰ってきても、母は自分の話をするばっかりで、子どもの話なんか聞いたりしない。
私はいつも、母の仕事の愚痴を聞く係であり、母の興味のある話を聞き続けるだけである。
子どもの学校の話なんか興味はない。
しかも、家には父しかおらず、母の話を耐えるしかない。
これを聞いて、「いやお母さんは障害を持っているんだからわかってあげなよ」「個性だよ」「家族なんだから」と言える人は、実際にどれぐらい私たちがしんどい思いをしてきたかわかってないのだと思う。
かなり残酷な言葉だと思う。
その「個性」とやらに、傷つけられる人がいる、と知っている人はどれぐらいいるのだろうか。
また、「家族なんだから障害のことも受け入れるべき」という、「家族を大事にする神話」が強い人は、その考えを強要することがどれぐらい辛いことなのかわかる人はいるのだろうか。
私は、母の障害のことを、高校3年生に初めて知った。
ずっと「母は人とは違う」「母のことを理解できない私は、子どもとして、人間として間違っている」という風に、自分を責めながら生きてきた。
そして、母が障害であることを知ったとき、また、母のことが苦手という事実にぶち当たったとき。
「母の障害が、私を傷つけた事実を正当化してしまいそうで怖かった」というのが事実だ。
母にどんな事情があろうと、「母のせいで私が傷つけられた」という事実が、正当化されてしまうのではないかと恐ろしくなった。
私が臆病なだけなのかもしれないけれど。
少なくとも私は、しんどそうな母や、母のことで死ぬほど苦しんできた父に対して、「障害は個性だよ」なんて口が裂けても言えない。
家族というだけで、なぜこんなにも様々なことを強要されるのだろうか。
私は、家族というだけで、お涙頂戴のための餌になどされたくないし、誰かの語られる感動エピソードのネタになるために生まれてきたわけではない。
娘なんだから母親を理解しろ?
家族なんだからそばにいるのは、感謝するのは当然?
そんなのは、家族に恵まれた人だけが言えることだと思うのだ。
また、もう一つ、「障害は個性だよ」なんて、他人が言うのは非常におこがましいことだと思う。
障害当事者が、様々な苦悩や困難、生きづらさを乗り越え、ようやく自分の一部分として受け入れた上での「障害は個性」という言葉であれば納得する。
でも、当事者でない人が、やすやすと「個性なんだから受け入れなきゃ」なんてことは絶対に言ってはいけない。
そもそも、障害というのは、先天的なもの後天的なもの、さまざまにある。
例えば、私が明日交通事故にあって足を失い、友人に「足がなくなってもそれは個性なんだから受け入れるのがいい」なんて言われたら、その友人とは関わりたくないと思う。
「障害」と診断されるぐらいのものは、当事者にとって、かなり生きづらく、辛いものである。
いろんな人に遠ざけられたり、生きづらさを感じたり、どうしたらいいかわからなくて自暴自棄になったり、誰かに当たったり、人に言えないようなつらさや苦しみもたくさんあると思う。
個性などという意見もあるかもしれないが、本当に正直なところ、障害を抱えたいか抱えたくないかでいえば、「抱えたくない」という人がほとんどではないかと思う。
だって、めちゃくちゃ辛いと思うから。
また、「抱えたい」「自分の一部だ」という人がいても、その意見になるまで、どれぐらい悩み、苦しみ、葛藤したのか、私には想像もつかない。
要は、障害については周りがどうこういうことではなく、本人の感じ方次第だし、他人があーだこーだ言えるものじゃないと思うのだ。
私もうつ病になって、今でこそ、うつ病の自分を受け入れることができたが、それまでの道のりは本当に死んでしまいたくなるほどつらかったし、もう一度それを経験したいかといわれると正直絶対嫌だ。
また、障害や病気を抱え、それを乗り越えることを「良しとする」「美談にする」みたいな考え方もほんとに嫌いだ。
障害は障害でしかないと思うし、その当事者や家族、周りの人は、辛い思いをたくさんしている。
障害だけじゃなくて、職業とか、性別とかにも言えることだろう。
どうか、決して美しいものではないことを、皆がわかってほしいと思う。
毎日のコーヒー代に。