自然の理慣れ

なにかを書こうと思う。とたんに左手の親指の爪が目に入る。爪切りで切ったので少し形がいびつだ。それが伸びてきて、はしの部分が気になる。全体的に気になるのではなく、角ばって切った結果、はしの部分だけ出っ張ってきたのだ。

切りたい。切るためにはペンを置いて、爪切りを取りにいかねばならない。爪切りは寝室の桐ダンスの中にある。面倒くさい。だがいったん気になってしまったものを放置するのも気持ちがわるい。

このように、自然の理は、とかく人の心をざわつかせる。泡立たせる。要は、気になってしょうがない。

では自然が身近になければ平穏なのかというと、そうでもなく。逆に自然がまったくないと心が荒むといって、都会のオフィスではレンタルしてまでも植物をキャビネットの上に置いたりするんですね。ちなみにお世話までアウトソーシングしているところも。

私は東京で育ち、長く東京に住んでいた頃、田舎が苦手でした。田舎というのはメタファーであって、実際は郊外程度の意味合いです。本当の田舎は論外でした。S区に住んでいたのですが、たとえば調布でもうアウトでした。

木が多い、空が広い、人が少ない。今、私が生きる上での必須条件とさえ思うこの三点がかつて私を苦しめたのはなぜだったのか? たぶん、そのカギはすき間にあったのだと今は思います。当時の私は、すき間が埋まっていることで、なにかを見なくて済んでいた、そしてそれに安堵を覚えていたのではないかと思うのです。

そのなにかとは、「季節のうつろい」だったり、「雲がかたちを変えるさま」だったり、たとえば「少しいびつに伸びた爪」だったりするのです。つまりは自然の理。

さて、爪を切って、ふたたび書こうとする。すると、どうしたことか、左手の中指のささくれがめくれて、血が出ているではないですか。なめてみる。むきたくなる。見ると気になるからバンドエイド貼りたい・・あー! ダメです。またしても自然の理ってやつにやられています。自然の理を言い訳に書かないだけかもしれませんが。

今日も森に行きました。あらかた木々の葉っぱは散ってしまいました。こうなると、もう認めないわけにはいきません。冬です。積もりに積もった落ち葉を踏む音も、冬が進むにつれて、聞かれなくなるのでしょう。色も音もない季節になっていきます。

ほぼ毎日森に来ていると、毎日だいたい同じようで、でもちょっとずつ違うということに敏感になります。これは子どもの成長も同じです。大人になると、毎日だいたい同じが前提としてあるので、ある時ふと気づく筋力の衰えとか、髪をかきあげた下に発見する白髪の群れとかに受けるダメージが大きい。毎日少しずつ衰えたり、増えたりしていったのだったら、あきらめもつくというものです。(もしくはそれを食い止めたいのであれば、それなりの対策も練れますしね) また、都市部では、ある日突然昔からあった建物が取り壊されて更地になっていたりすると、それまでどんな建物があったのか思い出せず茫然としる、という経験は誰しもあるのでは、と思います。あれってけっこう切なくないですか。

もしも子どもを持たなかったら、とはあまり考えないのですが、考えてみると、子どもというのは昨日出来なかったことが、今日突然できたりする。たとえばひもが結べるとか、両足同時にジャンプできるとか、そういう類ですが、そういう変化が一年を通じたら、大人とは比べものにならないくらいある。それらを毎日目の当たりにしていると、自然の理慣れするんでしょうね。それほど心乱されなくなる。なにかトラブルが発生しても、それなりに対応できるようになる。都会の高層マンションで虫が異常発生したら、この世の終わり的レベルの大騒ぎになるでしょうが、土のあるところなら、それくらいのことは想定内です。土から来たものは土に返せばいいだけの話ですから。返す土がないこと。それが問題の源なわけです。

心乱されるのが嫌なのであれば、都市部に住めばよいでしょう。都市部に住んでいてもそれなりに自然とふれあうことはできます。公園はいたるところにありますし、秋になれば街路樹は色づきます。実はそれは自然という名の人工物なのですが、代替品としての条件は満たしているので、さしあたっては生活に支障はないでしょう。ただし、天変地異が起こった場合は別です。

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石渡紀美(イシワタキミ)
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