子どもを育てることは義務ではなく、子どもはわたしの生きがいではない。
最近はあまりないが、子育てをしていると、しているだけでえらいね、と言われたりする。たぶん言っている方は、善意で言ってくれているのだけれど、わたしはひと頃、あれが嫌いで、「べつにえらくないよ」とわざわざ言い返せる相手には言い返していた。言い返せない相手にはヘラヘラ笑って、それから遠ざかった。
同じようなことを考える人がいた。
「そうせざるを得ない状況に追い込まれた人はそうする」だけ。
まさに、そう。わたしにとって、子育ては、自分でしたうんちの後始末に過ぎない。あるいは尻ぬぐい。うんちして、そのままってわけにはいかないのである。ちゃんと流すべきところに流し、お尻はふく。授乳も、オムツ替えも、沐浴も、すべて、したくてするというより(そういう人もいるとは思う)、「そうせざるを得ない状況に追い込まれた」のでしている、というところがあった。当然だから、それをほめられてもねえ、と。ただ、今、少し余裕のある時になって思うと(娘は5歳半になった)、そんなに怒らなくてもよかったのかな、とも思う。さらに大きな目でその頃のわたしを見てみると、それだけがんばってたんだねえ、としみじみしてしまう。
出産することは決めたものの、そこから始まる子育てについて、あまりにビジョンがなかったのがまずかった。墜落していく飛行機の窓から、所持品をぼんぼん投げ捨てるような、最初の育児の日々であった。
10年たって産まれたふたり目の子育ては、自らの過去を反面教師にして、だいぶ楽だ。体調がしんどい時など、SOSを出すことに抵抗がなくなった。ごはんを食べさせ、よく遊ばせ、ちゃんとお風呂に入れられたら満点の一日だ。
子どもを育てるのは子どもを産んだ人の務めだ、というむきがあるが、そう思って楽しく子育てできる気がまったくしないので、わたしはそう思わない。それよりも、生理現象というほうが、ずっとぴったりくる。義務はださいが、生理現象ならば仕方ない。生理現象なら、責任持てる。うんちしたら、お尻ふく。だってわたしから出てきたものですから。
が、うんちもやがて独立独歩。じぶんのすきなようにさせて、めいれいされるのはいやとか言い出す。5歳半になる娘である。彼女自身がうんちだと思っていたのに、もううんちをしたら、自分でふく。
時々、はっとするようなことを言う。
「じぶんのなかにかみさまがいるから、じぶんのすきなようにしていいんだよ」
そうか、やりたいことを、やっていいんだね。
子どもがいてよかったと思うことはある。たとえば、なにもかもがめんどうになってしまうようなとき。半日くらい寝てしまったりしても、子どもがいれば、ああ晩ごはんつくらなきゃ、と思える。晴れれば、おふとん干さなきゃ、と。
うちには呪文があって、「めんどくさいは、あくまのことば」という。
あくまに引っ張られそうなとき、この言葉を思い出す。あくまに引っ張られそうなひとに、子どもとセットでこの言葉を貸し出してもいいな、と思う。ときどき、本当に思う。