プラポ展と情念と
プラポ展と情念と
個人的な話。
プラポ展に行ってきました。写真家やフォトグラファーの方々の写真を展示する展示会なんですが、これ、ひそかに憧れでしてね。ツイッターで昨年から噂を目にしていて、気になっていたんですね。
去年は期間中、どうしても都合がつかず、仕事の昼休みに30分だけ抜けて駆け足で展示を見たんですよ。抜け出している間は呼び出しが来ないかとハラハラドキドキでしたが、そうでもしないと見ることができなかったし、絶対見たかった。今年は休みの日がマッチしてじっくり全部の展示を見れたんですね。至福だったなー。
主催者のぷーやんさんのつぶやきも気になってたし、参加するカメラマンさんやモデルさんのつぶやきも温かいし、こいうのっていいなー憧れるなーと、遠巻きながら見てたわけですね。
その1年の時を経て、念願のぷーやんさんとご挨拶させていただく機会に恵まれて、お話ができたんです。
ぼくは、カメラマンの知り合いが全くいない状態でスタートしたのですが、ぷーやんさんもそうだったと。それがこんな風に発展していくなんて、やっぱり一人の情熱からモノは始まっていくんだと痛感しました。
(何より、ぷーやんさんとお話ができてこれもまたひそかに感激してました….)
ichiさんというカメラマンがいて、ぼくはその方の写真を気に入ってしまったわけなんですが、ご本人が在廊していてありがたいことにお話を聞くことができました。初対面にもかかわらず気さくにお話してくださって、すごく楽しかったですね。
そういうわけで、あらためてプラポ展を回想してみて思ったんですが、そこにはたくさんの”好き”と”可愛い”と”キラキラ”と、そして”狂おしいばかりの情念”があったなあ、と思いました。
モデルさんは綺麗だし、可愛いし、展示もすっきりとして居心地がいい。
だけど、カメラマンの執念がギラギラと写真の奥には間違いなくあったなと感じました。
何か動かしがたい人間の業というか、カメラマンがカメラを手に取らざるをえない魂の叫びの衝動の源泉というか。例えば、かっこいいものを撮りたい、と思ったとしたら、その奥の奥には、過去のコンプレックスだったり承認欲求だったり、満たされない何かを埋めようとする生理だったり、そんなのがあって、それを満足させる手段がカメラなんだろうなと。
その求めるものは人それぞれによって違うし、だからこそ追い求める撮りたい対象と、理想とする写真の形も人によって違うのだろうけど。その魂の欲求が写真という形になっているんだなと、感じました。
表面的には綺麗。だけどその奥には、熱いマグマのようなドロドロとした何か。情念がありますね。
そういうものを表せるものだったんですね、写真って。
情念といえば、ぼくは、山戸結希監督の「溺れるナイフ」を見てそれを感じました。山戸監督の映画は大好きで、(本人のトークも大好きですが)、前作も見ていました。熱いものがいつも伝わってくるのです。それがメジャデビュー作品でも健在なのは圧巻でした。
最後の方、菅田将暉くんがお祭りで踊るシーン、あそこに山戸結希さんの狂おしいばかりの映画への情念を感じました。菅田将暉くんが演じているんだけども、あれこそがまさに山戸結希さんご本人なのではないかと思うくらいの。きっと、カメラ、編集、相当熱を持って打ち込まれたのでしょうね。それが伝わってきます。
余談ですが、いつか東京で勝負をしたい!と山戸さんは強く思ってらっしゃったようですが、それもモノづくりへの原動力となりますよね。
山戸監督はコミック原作に惚れ込んでいたわけですが、一般的に映画化には映画化の意味がなきゃいけないとすると、あのシーンを見せられた時に、あっ!映画化の意味がここにある、と思いました。山戸監督の映画と映画化への情念が焼きつくようにほとばしり出てると感じたからです。
情念という言葉は、情熱、というポジティブな感じがする言葉とは違って、執念、執着、という一見ネガティブな要素の意味にもとれるけれど、ものを生み出していくボクらにとってはとても必要なものだと思います。
情念は素晴らしい。そんな思いを巡らせる夜になりました。