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「金メダル■個目標!」に、NO!
こんにちは(*'▽')
オリンピック期間中にこんな投稿をしていると、“非国民” のレッテルを貼られるかしら? 熱狂からはちょっと距離を置いているへそ曲がりがここに一名います。
いつか冬季オリンピックを見ていたときに、モーグルかスノーボードか、日本人選手が完璧に演技できなかったあと下を向いてしまっている姿に対して、ヨーロッパの選手が明らかに失敗したあとでも「ウォーッ!」と腕を空に突き上げて審判&観客にアピールしている姿が強く印象に残っています。個人的には、後者のほうに元気をもらっています…( *´艸`)
ヤマザキ この漫画を描いていく中で気になり始めたのが、なぜ日本のニュースの半分ぐらいは運動なのか、ということなんです。みんなそんなに運動が好きなのか、ということもありますけど、野球でもサッカーでも、日本の選手が海外で活躍するということをすごく報道するじゃないですか。
海外のメディアでは、自分たちの国の選手が外国でがんばっていることなんてほとんど言いません。なんせ、それより人々に知らせるべき他に重要なニュースが山のようにあるんですから。ニュースのあり方自体がなんだか違うのかもしれません。日本では報道よりも、人々を元気にさせる内容でなければならない、みたいな方向性も感じられます。
中野 面白い現象ですね。
ヤマザキ あと、日本ではやたらメダルのことに言及しますよね。「メダルを20個目指しています」とか「金メダル何個獲る」とか、なんだかメダルをもらえないとがんばったことにならないみたいな感じがしてしまうんです。まるで貨幣価値を生まないものは意味がない、みたいな考え方が、運動とメダルの個数にもあるような気がして。
中野 あれは私も不思議ですね。もちろん、メダルという目標があった方ががんばれる人もたくさんいるし、自分の応援している選手がメダルを獲れば、観ている方も楽しいとは思うんです。メダリストになれるかなれないかは、選手のその後の人生での活躍ということにも関係しますから、メダルは大事でないとはもちろん言えない。でも、そこを国として後押しするとなると、ちょっとややこしい問題が生まれても来ます。
ヤマザキ 北朝鮮や中国のような国はまた違うでしょうけど、少なくともヨーロッパでは「メダルを何個目指す」なんてことは言わないし、メダルはまあ、獲った人たちの成果であって、自分たち的にはほぼどうでもいいと思ってるところがありますね。
中野 日本とは雰囲気がかなり違いますね。
ヤマザキ はい。たとえば日本人の選手は「金メダルを獲れなかった」と言って泣いたりしますよね。ヨーロッパのメダリストには、医学生や弁護士という顔も持ちながら、「片手間に運動やったら、なんとなくオリンピックの選手になって、しかも金メダル獲れちゃった、ラッキー!」みたいな感じの人がたくさんいますけど、その横で日本人が銀メダルを持ってうなだれていたりする。このテンションと温度差の違いはなんだろうと思います。
中野 銀メダルの人の幸福感は銅メダルの人の幸福感より低いという調査を見たことがあります。銅メダルの人は「獲れなかったかもしれないものが獲れた」という嬉しさがあるんですけど、銀はむしろ金メダルに届かなかったというマイナスの部分が大きいという。
ヤマザキ 銀メダルは残念賞みたいな感じで、微妙なんですね。でも、メダル自体が争い事の習わしと言えますよね。
中野 人間は戦って繁栄を勝ち取ってきた種だともいえます。なので、争うなと言っても争ってしまうのはもう、不可避なんです。勝った側にとっては戦争というものはメリットもある。けれど、もちろん双方に犠牲は避けられない。なので、人類という大きな単位で考えたとしたら、やっぱり全体としてのリソースは減ってしまうといえます。となると、代理戦争という形でスポーツをするということには、一定の理由があるのだと思います。
ヤマザキ 古代ギリシャのオリンピア大祭も、戦争に次ぐ戦争で疲弊する中で、神々に運動を捧げ、諍(いさか)いを一旦停止するということで始まっています。ただ、個人として参加していたオリンピア大祭の競技者と違って、いまのオリンピックのアスリートは国の代表として来ている。特に日本では、それぞれがナショナリズムというプレッシャーを背負った戦士のような印象を受けますね。
中野 スポーツという言葉は元々、「デポルターレ」というラテン語から来ていて、日常から離れてリラックスするとか、心を遊ばせるものという意味だったんです。でも、日本では、なぜか「体育」と訳されてしまったんですよね。「体育」って、ちょっと端折(はしょ)ってしまいますが、要するに皆兵制を前提とした軍事教練をベースにして成立したものですから、だいぶ趣が異なります。
ヤマザキ 学校で「右へ倣え、前へ倣え」と号令をかけたり、行進したり、そんなのイタリアではやらないですからね。
そういう「お国のために」という「体育」が抜けきっていない状況で運動をさせられたのが、円谷幸吉さん(※)です。円谷さんは自衛隊員でしたからよけい国のためという意識が働いたのだと思いますが、敗戦から20年ぐらいしか経っていない中、たまたま有望な選手だったということで、いつのまにか日本の戦後復興の象徴にされてしまった。1964年東京オリンピックで銅メダルを獲ったにもかかわらず、「次のメキシコ大会で金メダルを絶対に獲れ」と圧力をかけられ続けた円谷さんは、結局その国の期待を背負った状態に疲れ果ててしまって、自死を選びます。
(※)円谷幸吉……陸上長距離選手。福島県須賀川高校から陸上自衛隊入隊後、自衛隊体育学校第一期生となる。東京オリンピック1万メートル6位入賞、マラソンで銅メダル獲得。1968年自死した。享年27。
中野 この事件については思い返すたび涙が止まりません。本当に悲しい事件ですよね。
ヤマザキ 肉体も、怪我の手術などでボロボロになっていたし、婚約者とも別れさせられて、円谷さんはプライベートという逃げ場を一切失ってしまった。もう金メダルだけを考えて生きていくしかないという切羽詰まったところに追い込まれたことが、あの悲劇につながっていったのではないかと思います。
中野 自分ががんばって、その結果として勝利を得ることで日本の人々を元気づけたい、という気持ちは共感できるものです。理解できるし、当時の選手たちもそのためにがんばっていたと思います。でも、その陰で潰れてしまった円谷さんのような人のメンタルを、ケアできなかったことも事実です。メダルを獲れなかった人に対して非人間的な扱いをする空気はだいぶ薄くなってきていると思いますけど、ああいうことは、もう起こってほしくないですね。
ヤマザキ そうですね。そもそも肉体を謳歌し、生きる喜びを感じるためのスポーツで、人が死ぬのはあり得ないことなんです。
1964年の東京オリンピックで、ゴール直前に円谷さんを抜いて2位になったイギリスのヒートリーは、表彰台で片腕しか上げられなかったそうです。1位のアベベも3位の円谷さんも両手を上げているのに、やっぱり日本のすべての期待を背負って走っていた選手を抜いてしまったという後ろめたさがあって、嬉しくなかったということだったみたいですね。それだけ、ヒートリーはあの国立競技場の満員の観衆のものすごい圧を感じていたんだと思います。
中野 しかも、彼は20年前に日本に原爆を落とした側の国民だったわけですから。それは、きつかったでしょうね。
ヤマザキ ヒートリーは漫画に描いても、キャラが立ってくれそうです。
中野 私も、メダルが獲れたかどうかより、選手の背景にあるドラマの方に興味があります。
ヤマザキマリ & 中野信子
『ヤマザキマリ対談集 Dialogos』(集英社、2021年)より
円谷幸吉(つぶらや こうきち)さんのことは『オリンピア・キュクロス』2巻で知りました。やり切れない思いが込み上げてきます。
オリンピック・パラリンピックに出場かなった選手の方達には、思うような結果が出なかったとしても、そこにいたるまでの自分&戦い切った自分を褒めてあげて欲しいです。どうか、下を向かないで!! その競技をずっと好きでいて、楽しんでください~(*^^*)
Don't turn your face to the ground !! Be proudly with your head up ☆