小麦に家畜化された人類…罠だった?
こんにちは(*'ω'*)
いま上野・国立博物館で「植物 地球を支える仲間たち」特別展が催されているんですね。どんなようすなのかな? 髪用トリートメントを無駄なく使い切ろうとして、チューブの真ん中をはさみで切った切り口を上に向けて置いていたら、中でゴキ○○さんが一匹お亡くなりになっていたことがあります。甘い香りで誘う疑似食虫植物を設置してしまったのかな。
食虫植物はいろんな方法で虫を捕まえて自分の栄養にしますが、そこまでいかなくとも、植物は自分で動けないぶん、虫に花粉を運んでもらう術をあみだしたり何だり、生存戦略に長けた知者のようです。
かつて学者たちは、農業革命は人類にとって大躍進だったと宣言していた。彼らは、人類の頭脳の力を原動力とする、次のような進歩の物語を語った。進化により、しだいに知能の高い人々が生み出された。そしてとうとう、人々はとても利口になり、自然の秘密を解読できたので、ヒツジを飼い慣らし、小麦を栽培することができた。そして、そうできるようになるとたちまち、彼らは身にこたえ、危険で、簡素なことの多い狩猟採集民の生活をいそいそと捨てて腰を落ち着け、農耕民の愉快で満ち足りた暮らしを楽しんだ。
だが、この物語は夢想にすぎない。人々が時間とともに知能を高めたという証拠は皆無だ。狩猟採集民は農業革命のはるか以前に、自然の秘密を知っていた。なぜなら、自分たちが狩る動物や採集する植物についての深い知識に生存がかかっていたからだ。農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は農業革命によって、手に入る食糧の総量をたしかに増やすことはできたが、食糧の増加は、より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。
では、それは誰の責任だったのか? 王のせいでもなければ、聖職者や商人のせいでもない。犯人は、小麦、稲、ジャガイモなどの、一握りの植物種だった。ホモ・サピエンスがそれらを栽培化したのではなく、逆にホモ・サピエンスがそれらに家畜化されたのだ。
ここで小麦の立場から農業革命について少し考えてほしい。一万年前、小麦はただの野生の草にすぎず、中東の狭い範囲に生える、多くの植物の一つだった。ところがほんの数千年のうちに、突然小麦は世界中で生育するまでになった。生存と繁殖という、進化の基本的基準に照らすと、小麦は植物のうちでも地球の歴史上で指折りの成功を収めた。一万年前には北アメリカの大草原地帯グレートプレーンズのような地域には小麦は一本も生えていなかったが、今日そこでは何百キロメートルも歩いても他の植物はいっさい目に入らないことがある。世界全体では、小麦は225万平方キロメートルの地表を覆っており、これは、日本の面積の約6倍に相当する。この草は、取るに足りないものから至る所に存在するものへと、どうやって変わったのか?
小麦は自らに有利な形でホモ・サピエンスを操ることによって、それを成し遂げた。この霊長類は、およそ一万年前までは狩猟採集によってかなり快適な暮らしを送ってきたが、やがて小麦の栽培にしだいに多くの労力を注ぎ込み始めた。2000年ほどのうちに、人類は世界の多くの地域で、朝から晩までほとんど小麦の世話ばかりを焼いて過ごすようになっていた。楽なことではなかった。小麦は非常に手がかかった。岩や石を嫌うので、サピエンスは汗水垂らして畑からそれらを取り除いた。小麦は場所や水や養分を他の植物と分かち合うのを嫌ったので、人々は焼けつく日差しの下、来る日も来る日も延々と草取りに勤(いそ)しんだ。小麦はよく病気になったので、サピエンスは虫や疫病が発生しないか、いつも油断ができなかった。小麦は、ウサギやイナゴの群れなど、それを好んで餌にする他の生き物に対して無防備だったので、農耕民はたえず目を光らせ、守ってやらなければならなかった。小麦は多くの水を必要としたので、人類は泉や小川から苦労して運び、与えてやった。小麦は養分を貪欲に求めたので、サピエンスは動物の糞便まで集めて、小麦の育つ地面を肥やしてやることを強いられた。
ホモ・サピエンスの身体は、そのような作業のために進化してはいなかった。石を取り除いたり水桶を運んだりするのではなく、リンゴの木に登ったり、ガゼルを追いかけたりするように適応していたのだ。人類の脊椎(せきつい)や膝、首、土踏まずにそのつけが回された。古代の骨格を調べると、農耕への移行のせいで、椎間板(ついかんばん)ヘルニアや関節炎、ヘルニアといった、じつに多くの疾患がもたらされたことがわかる。そのうえ、新しい農業労働にはあまりにも時間がかかるので、人々は小麦畑のそばに定住せざるをえなくなった。そのせいで、彼らの生活様式が完全に変わった。このように、私たちが小麦を栽培化したのではなく、小麦が私たちを家畜化したのだ。栽培化や家畜化を表す「domesticate」という英語は、ラテン語で「家」を意味する「domus」という単語に由来する。では、家に住んでいるのは誰か? 小麦ではない。サピエンスにほかならないではないか。
それでは小麦は、どうやってホモ・サピエンスを説得し、素晴らしい生活を捨てさせ、もっと惨めな暮らしを選ばせたのか? 見返りに何を提供したのか? より優れた食生活は提供しなかった。思い出してほしい。人類は多種多様な食べ物を食べて栄える、雑食性の霊長類だ。農業革命以前は、穀物は人類の食べ物のほんの一部を占めていたにすぎない。穀類に基づく食事は、ミネラルとビタミンに乏しく、消化しにくく、歯や歯肉に非常に悪い。
ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)
『サピエンス全史(上)――文明の構造と人類の幸福』(柴田裕之・訳、河出書房新社、2016年)より
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世話に手がかかる小麦、なんだか「星の王子さま」が自分の小さな星でお世話していた(ちょっと高飛車でわがまま?な)バラを思い出します。
自身の身体や健康について敏感なプロスポーツ選手やモデルさんが、日々の食事を突き詰めてグルテンフリーや糖質制限に至るのは、結果的に穀物過剰接種からの揺り戻しになっていて、人類史的な裏付けができちゃうかもしれない?とふと思ったりします。玄米、雑穀米、オートミールもいつからかときどき耳にするようになりました。幅広く、いろいろな食物から栄養をいただきたいものです。逆に、単一食物だけをたくさん食べるようなダイエットは、栄養の偏りがあってのちのち良くない影響を及ぼしそうで、避けたいものだなぁと思います。
いまよく店頭で見かけるバナナは、クローンのように同じDNAの単一品種らしく、仮に病気が蔓延してしまったら日本ではバナナそのものを食べられなくなるかもしれないのだそうです。おなじことは、他の野菜にも言えることらしく、市場で扱いづらく避けられがちな地域固有の品種を栽培することにも大きな意味があることがわかります。
もうすこし、本文の先を以下に。
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【 時がたつにつれて、「小麦取引」はますます負担が大きくなっていった。子供が大量に死に、大人は汗水垂らしてようやく食いつないだ。紀元前8500年にエリコに住んでいた平均的な人の暮らしは、同じ場所に紀元前9500年あるいは1万3000年に住んでいた平均的な人の暮らしよりも厳しかった。だが、何が起こっているのか気づく人は誰もいなかった。各世代は前の世代と同じように暮らし、物事のやり方に小さな改良を加える程度だった。皮肉にも一連の「改良」は、どれも生活を楽にするためだったはずなのに、これらの農耕民の負担を増やすばかりだった。
人々はなぜ、このような致命的な計算違いをしてしまったのか? それは、人々が歴史を通じて計算違いをしてきたのと同じ理由からだ。人々は、自らの決定がもたらす結果の全貌を捉え切れないのだ。種を地面にばらまく代わりに、畑を掘り返すといった、少しばかり追加の仕事をすることに決める度に、人々は、「たしかに仕事はきつくなるだろう。だが、たっぷり収穫があるはずだ! 不作の年のことを、もう心配しなくて済む。子供たちが腹を空かせたまま眠りに就くようなことは、金輪際なくなる」と考えた。それは道理に適っていた。前より一生懸命働けば、前より良い暮らしができる。それが彼らの胸算用だった。
そのもくろみの前半は順調にいった。人々は実際、以前より一生懸命働いた。だが、彼らは子供の数が増えることを予想していなかった。子供が増えれば、余剰の小麦はより多くの子供が分け合わなければならなくなる。また、初期の農耕民は、子供に前より多くお粥を食べさせ、母乳を減らせば、彼らの免疫系が弱まることも、永続的な定住地が感染症の温床と化すだろうことも理解していなかった。単一の食糧源への依存を強めれば、じつは旱魃の害にますます自分をさらすことになるのを予見できなかった。また、豊作の年に穀倉が膨れ上がれば、盗賊や敵がそれに誘われて襲ってきかねないので、城壁の建設と見張り番を始めざるをえなくなることも、農耕民たちは見越せなかった。
それでは、もくろみが裏目に出たとき、人類はなぜ農耕から手を引かなかったのか? 一つには、小さな変化が積み重なって社会を変えるまでには何世代もかかり、社会が変わったころには、かつて違う暮らしをしていたことを思い出せる人が誰もいなかったからだ。そして、人口が増加したために、もう引き返せなかったという事情もある。(略)後戻りは不可能で、罠の入り口は、バタンと閉じてしまったのだ。
(中略)
歴史の数少ない鉄則に一つに、贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる、というものがある。人々は、ある贅沢品にいったん慣れてしまうと、それを当たり前と思うようになる。そのうち、それに頼りはじめる。そしてついには、それなしでは生きられなくなる。私たちの時代から、別の馴染み深い例を引こう。私たちは過去数十年間に、洗濯機、電気掃除機、食器洗い機、電話、携帯電話、コンピューター、電子メールなど、時間を節約して生活にゆとりをもたらしてくれるはずの、無数の機械や手段を発明した。以前は、手紙を書き、封筒に宛先を書いて切手を貼り、ポストまで持っていくのはけっこうな手間だった。そして、返事がくるまで何日も、何週間も、ことによると何か月もかかることがあった。それが今では、電子メールを地球の裏側までさっと送り、(相手がオンラインならば)一分後には返事が受け取れる。私は以前の手間と暇をすべて省けたわけだが、前よりもゆとりある生活を送っているだろうか? (略)
農業革命は歴史上、最も物議を醸す部類の出来事だ。この革命で人類は繁栄と進歩への道を歩みだしたと主張する、熱心な支持者がいる。一方、地獄行きににつながったと言い張る人もいる。彼らによれば、これを境にサピエンスは自然との親密な共生関係を捨て去り、強欲と疎外に向かってひた走りに走り始めたという。】
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人類が罠にはまったという視点には、びっくりしつつも「なるほど…( ゚Д゚)」と思ってしまいます。
新聞で読んだのですが、中国では政権の号令のもとで経済が発展して右肩上がりかと思いきや、中国国内で暮らす若者の間には、一生懸命働いてもいつまでも楽にならないのであれば、ほどほどのところで満足してあくせく働くことに見切りをつけるような考えの人も増えているそうです。
ミヒャエル・エンデの物語『モモ』でも、時間を節約してより良い暮らしを求めたつもりが、「逆に人生の踏み車(トレッドミル)を以前の10倍もの速さで踏み続ける羽目になり、日々を前より落ち着かず、いらいらした思いで過ご」すようになってしまった人々の様子が描かれています。
ゆとりある暮らしがしたいなぁと願ってます。
Stop our steps... Is that improvement what makes really our lives better ??☆