息、それは…
こんにちは(*'▽')
幸せが逃げるといわれるため息。でも、あたらしく息を吸うためには、まず吐かなきゃならないようです。息を吐く方が先。昨日、富士山五合目の空気をたくさん吸ってきたので、私の肺の奥の方にはまだ吐ききっていない、きれいな山の空気が残っているかも!
…ここでいうアートマンは、個人の身体の中に宿っている生命的な息としての自己である。アートマンが意識不明になり、見ることも、語ることも、考えることも、認識することもできなくなったとき、これらの生気は心臓の中に降りていく。そして「彼の心臓の先端が輝き始める。それの輝きのよって、この自己[アートマン]は目から、あるいは頭蓋から、あるいは身体の他の部分から外へ出て行く。息が外へ出て行こうとする時に、すべての生気はその息に従って外へ出て行く」。それはちょうど、毛虫が草の葉の先端にまで達したあとで、他の葉の先端へと移り越えていくときのように、アートマンはそれまで住んでいた身体を脱して、他の新しい身体の中へと移り越えていくのである。そして、良いことを行なっていた人間は、良い人間へと生まれ変わり、悪いことを行なっていた人間は、悪い人間へと生まれ変わる。これが、欲望によって突き動かされている人間の輪廻転生である。
これに対して、欲望がない人間、欲望を離れた人間、アートマンを欲する人間は、死に際してもその生気は身体の外へは出て行かない。その人間は、不滅の存在であるブラフマンの中へと入っていく。「彼の心臓に宿る、すべての欲望が解消される時に、死すべきものは不死になり、この世においてブラフマンに到達する」。そして「蛇の皮が、蟻塚に死んだまま脱ぎ捨てられて横たわっているように、まさにそのように、この死体は横たわっている。しかし身体のない、不死のこの息が、まさにブラフマンであり、まさに熱である」。すなわち、欲望を離れた人間は、死後に輪廻転生することなく、蛇が皮を脱ぎ捨てるようにして身体を脱し、不死の息となって解脱に至るのである。
この輪廻転生するアートマンは「息(プラーナ)」である。高崎直道は、アートマンは呼吸するという動詞(at)に由来し、気息および生命の根源と考えられ、ひいては自己を意味したと述べている。また、ヤージニャヴァルキヤは、「唯一の神は誰なのか?」と問われ、「息である。彼はブラフマンであり、あのものである、と人々は名づける」と答えている。
さらに、同じく『ブリハドアーラニヤカ・ウパニシャッド』にある次の寓話も興味深い。人間を構成する「言語」「視覚」「聴覚」「思考」「精液」「息」たちが集まって、誰が一番偉いのかを争っていた。彼らはブラフマンのもとへ行って尋ねた。するとブラフマンは、お前たちのひとりひとりが順番に入れ替わって人間の身体から外へ出て行ったときに、その人間がもっともダメージを受けるであろうものが、その人間にとってもっとも卓越しているものであると答えた。それを聞いて、まず言語が人間の身体から外へ出て行き、一年後に帰ってきて、ふたたび身体の中に戻った。次いで、視覚、聴覚、思考、精液がひとりひとり順番にその人間の身体から外に出て行き、一年後に帰ってきて、ふたたび身体の中に戻った。最後に息がその人間の身体から外に出て行こうとしたとき、残りの構成要素たちは慌てて、息に出ていかないように懇願した。なぜなら、もし息が出ていったとしたら、その人間全体が死んでしまい、それらの構成要素たちは人間の身体の中で生きていけなくなるからである。このようにして、息がもっとも卓越した構成要素であることが立証されたというのである。
ここで注目すべきは、人間にとって思考よりも息のほうが卓越するという生命観が見られることだ。『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』においても、興味深い寓話が語られている。ナーラダは、サナトクマーラから、お前が学んだものは「名前」にすぎないと指摘される。ナーラダは「名前より偉大なものは存在するのか?」と尋ねる。するとサナトクマーラは「言語は名前よりも偉大である」と答える。ナーラダは「では言語より偉大なものは存在するのか?」と尋ねる。サナトクマーラは「思考は言語よりも偉大である」と答える。ナーラダは「では思考よりも偉大なものは……?」と尋ね、「意図は思考よりも偉大である」との答えを得る。そしてさらに、それらより偉大なものが、順番に、「理解力」「沈思」「認識」「力」「食物」「水」「熱」「虚空」「記憶」「希望」と続き、最後に「息は希望よりも偉大である」として「息」がリストの最上位に置かれ、その「息」を生み出すものがアートマンであるとされるのである。
このリストを見て驚くのは、ヨーロッパ哲学において人間の最大の本質とされてきた「思考」や「認識」が、偉大さのリストのはるか下位に置かれている点である。「息」は「思考」や「認識」をはるかにしのぐ偉大さを持ったものとみなされている。そしてこのリストにおいて、「息」はアートマンにもっとも接近した存在とされている。もちろんこのテキストでは、息はアートマンと完全に同一視されてはいないが、息としてのアートマンという考え方が『ウパニシャッド』を支える重要な柱のひとつであるのは間違いないだろう。(略)
人間の生命の本質が息であるという観念もまた、古代世界に広く見られる。『旧約聖書』には、神が土から人間の形を作り、その鼻からいのちの息を吹き入れて、人間を生けるものにしたというエピソードがある。坂口ふみは、古代キリスト教で聖霊として語られる「プネウマ」は、古代ギリシアにおいては「生命を与える宇宙的息吹き」を意味しており、新プラトン主義では「この可視の宇宙全体を生み、包み、支配し、支え、生命を与える原理」とされたと述べている。宇宙全体に息は満ちており、その息によって人間を含む様々なものに生命が与えられているというのである。『ウパニシャッド』や、それに先立つ『リグ・ヴェーダ』に見られる「息としてのアートマン」は、これら地中海世界に広がる気息的生命観の原初的な形を用意するものであったと考えられる。これは、人類がはるか昔から各地で共有していた世界観なのだろう。
この輪廻する息としてのアートマンを、ショーペンハウアーは「生きようとする意志」と同一視したのだと考えられる。ちょうど、人間が死んだときに、息としてのアートマンがその人間の身体から抜け出して他の人間へと生まれ変わるように、ショーペンハウアーの言う「生きようとする意志」もまた、人間が死んだあとで壊れることなく、他の人間へと輪廻転生していくとみなされたのである。
森岡正博
『生まれてこないほうが良かったのか? 生命の哲学へ!』(筑摩書房、2020年) 「第4章 輪廻する不滅のアートマン」より
本書は、こんど参加する読書カフェの課題本です。ショーペンハウアーという人は、「われわれは根本的にいって存在すべきではなかった何ものかなのである Wir sind im Grunde etwas, das nicht seyn sollte」「われわれはこの世に存在しないほうがよかったのだ wir besser nicht dawaerenという認識こそ、……あらゆる真理のなかで最も重要な真理である」と言っていたそうです。誕生否定とか、反出生主義(※自殺はまた別問題)と呼ばれるのだそうです。こんなことを真剣に考えつづけたなんて、目の前で動物や幼い子のおもしろいしぐさ・行動が展開されても、ププッとも笑わないか、そもそも気がつかないで素通りしてしまいそう。ちょっと気の毒です。
樹木希林さんの「面白がればいい!」、明石家さんまさんの「生きてるだけで、人生丸儲け!」という考えと交差したら、ショーペンハウアー氏はどんな持論を展開してくれるのでしょうか?
ほんとうに辛くて助けを求める声も上げられないようなとき、ただ生命の維持(精神的な)を必死にしている・息をしているだけ、というときには読まないほうがいいかもしれない本ですね…(^^;)
亡くなることを「息を引き取る」ということからも、息は生命に必須というのがわかる気がします。
フラメンコの身体表現をするとき、息/呼吸を見せるかのようにカラダを拡げたり重心をわずかに落としたりすることを教わりました。手足の動きや振り付けは末端に出てくる現象(結果)にすぎなくて、大事なのはボディの内側に宿っている呼吸やエネルギーを感じることなのでしょうか。奥深い世界にどっぷり浸かることを「沼にハマる」と言うらしいですが、フラメンコ沼で呼吸や息についていろいろ感じられそうです~( *´艸`)
The most important thing for human is breathing ☆