僕が「あちこちオードリー」で感じる絶望と、「アナザーラウンド」に見出した希望について
※ このnoteは「アナザーラウンド」のネタバレを含みます。
ちまたではお笑い芸人がお笑い論を語ったり、タレントがワイプの技術を解説したりするメタ的なトーク番組が流行っているけれど、そのうちのひとつ、オードリーの冠番組「あちこちオードリー」にはひと味ちがった面白さがある。単なるタネ明かしにとどまらず、一線で活躍する芸能人の「仕事論」が聞けるのだ。一発当たれば大きいものの、ほとんどが日の目を見ないまま敗れ去ってしまう、過酷な芸能界を生き抜いてきたサバイバーたちによる本音のトーク。ハタチそこそこでスターダムに駆け上がった早咲きのアイドルも、何十年も風呂なしトイレなしの貧乏生活を送ってきた大器晩成の芸人も、華々しい表舞台の裏では、それぞれに孤独や苦しみを味わっている。そして、そんな辛い時期を乗り越えて大成功を収めた、もはや世間的には安泰と思われる大物ですら「もうこれ以上の地位にはいけないな」とか「これから先も生き残れるだろうか」と悩むのだ。番組のホストを務め、いまや押しも押されもせぬ人気芸人のオードリーも度々この番組や「オードリーのオールナイトニッポン」内で「50代のオードリーが想像できない」とこぼしている。どれだけたくさんの夢を叶え、数え切れない人に愛されたとしても、悩みは尽きないらしい。
だから僕はこの番組をみていると時々絶望する。いったい自分はいつまで悩めばいいのだろう?いまだって既に先の見えない不安と戦っているのに、きらきらと明るい世界にいる芸能人ですらもがき続けているのだとしたら、僕も死ぬまでこの苦しみと向き合わなければならないのだろうか、と。残念ながらおそらくその問いに対するこたえはイエスだ。ひとつ壁を壊しても、もうひとつの壁が待ち構えている。そして、その壁がなくなることはないのだ。もしかしたら、人間は未完成のまま死ぬしかないのかもしれない。
ことしのアカデミー国際長編映画賞を受賞したデンマーク映画「アナザーラウンド」は、ちょうどオードリー・若林が「想像できない」と語るところの50代の危機を描いた映画である。歴史の研究者を目指していた主人公のマーティンは、とりあえず生活を維持するためにはじめたはずの教師の仕事に縛られたまま、結婚をして、子どもが生まれ、気づけば人生も折り返しの50代に突入していた。職場では「つまらないオヤジ」と生徒から蔑まれ、家に帰っても夜勤の妻とすれ違ってしまう。そして、職場の友人たちとの飲み会で「もうなにも楽しくない…辛い…。」と涙を流すのだ。マッツ・ミケルセンの謎めいた美貌によってかろうじてシーンの落ち着きは保たれているものの、本来、おっさんがお酒飲んで泣くなんて見るに堪えない光景である。だから僕はこのシーンを笑いながら観ていた。
しかし、マーティンはこのあと友人たちと「人間の血中アルコール濃度は0.05%が理想であり、その状態をキープすることで体がリラックスし、力と勇気がみなぎってくる」という謎の俗説を信じ、その説を実証するために、ほろ酔いのまま仕事や家族の時間に臨むようになっていく。最初はトントン拍子で事が進み、ややコミカルに彼らの快進撃が描かれるものの、中盤以降の「案の定」な展開が示すように、これは緩やかな自殺行為である。たしかにお酒は一時的な「万能感」をもたらしてくれる。だが、それはあくまで「一時的」なのだ。心の痛覚を殺して、目の前にある壁を見えないものとしたところで、所詮は現実逃避。マーティンは物静かな男なのであまり多くは語らないが、かなり限界のところまで追い込まれていた。僕はやっぱりここでも絶望する。50歳を過ぎたおっさんでも「俺の人生はつまらない」と嘆くのか。愛する伴侶がいて、そのひとの間に子どもも生まれて、それなりの生活を送れているのに、それで満足にはならないのか、と。人生が「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」なのだとしたら、僕には走り続ける理由がわからない、とすら思う。
「アナザーラウンド」は、英語で「もう一杯!」の意味だ。映画の終盤、「人間の血中アルコール濃度は0.05%が理想」説の実証に失敗し、あやうく人生の道を踏み外しかけたマーティンは、妻との別居、それから友人の死をきっかけにこのままではまずいと再起を決意する。結局のところ酒を浴びるように飲んだところで目の前の壁はなくならない。ふたたび主体的に「マラソン」の意味をたぐり寄せない限り、本当に友人のように死んでしまうと気づいたのだ。そして、人生の「アナザーラウンド」を味わおうと心に決める。こんどは人生から逃げるためではなく、楽しむために飲むのだ。憑き物がとれたように晴れやかな表情のマーティン。そして、彼のスマホに届くのは離れたはずの妻からの「会いたい。さびしい」のメッセージ。マーティンの未来を祝福するかのように華々しい「卒業パーティー」の場面で、映画は幕を閉じる。
ところで、この都合が良すぎるぐらい明るいクライマックスには、撮影前に最愛の娘を事故で亡くしたトマス・ヴィンターベア監督の祈りにも近い想いが込められている。ヴィンターベア監督は、緩慢な死に逃避するマーティンを殺さなかった。「アナザーラウンド」を楽しむチャンスを与えた。それは、一時は自殺すら考えた己を奮い立たせる「再生」の儀式でもあったのだ。この映画で描かれる希望がどこか空洞で、心がぽっと温まると同時に切なさを感じずにいられないのは、それが絶望の反動として出来したものだからである。そして、主人公のマーティンも、トマス・ヴィンターベアも「生きている」のだ。どれだけ深く絶望し、じっくりアルコールで全身の臓器と細胞を殺そうとも、最終的に彼らは「生きている」。生きて、もう一杯を楽しんでいる。そこには自分で自分の人生をコントロールしているという意味での「万能感」がある。同じように「あちこちオードリー」で語られる悲惨なエピソードや、先の見えない不安の吐露がしっかりエンターテインメントになっているのは、「でも、ここにいる」からだ。「ここにいる」からテレビで自らの経験を語れる。電波を通して、日本中にその想いを届けている。たしかに彼らがこの先どうなるかはだれにも予想できない。しかし、少なくとも彼らはいまテレビの中で輝いている。僕が「中年の危機」映画に絶望し、「あちこちオードリー」にげっそりしながらも、これらのコンテンツを追い続けているのは、どれだけ苦しい想いをしても生きて、その場に立っている人に希望を感じるからなのかもしれない。