【ナガサキ】明日、長崎の街に原爆が…とは誰も知らない朝が来る
『明日 一九四五年八月八日・長崎』
こんなタイトルの小説があります。
映画やドラマにもなりました。
人間とは何か?
戦争とは何か?
生きるとは何か?
そんな問いに、
この『明日』という小説は
圧倒的な正しさで読者を
包み込んでくれます。
これを書いたのは、井上光晴。
井上荒野の父でもあり、
原爆や原発の悲劇に取り組んだ
小説家でもありました。
のちに『全身小説家』という
映画にもされるなど、
鬼気迫る作品を書き続けた作家でした。
『明日』のあらすじは、
様々なことが起きる
ちょっと賑やかな1日のはなし。
子供を出産する妊婦。
刑務所の中の夫に会いにゆく妻。
結婚式を挙げる一組のカップル。
洗濯ものを大量に干している主婦。
そんな悲喜こもごもを生きる
市民たちの群像劇ですが、
そこに共通しているのは、
1945年8月9日の「前日」である、
ということ。
明日は8月9日であるということ。
明日が歴史に残る大惨劇の日とは
誰も知らなかったということ。
小説に描かれる彼らは、誰もみな、
今日を生きることに精いっぱい。
明日に原爆が
自分たちの街に投下されるなど
誰もが予想だにしていませんでした。
いや、人間、そんな予想など
できるはずがありません。
昔も今も。
考えたら、
我々もまた1945年8月8日の
彼、彼女らと全く同じですね。
明日、何が起きるかを知らず、
ひたすら今日を生きている。
明日、もしかしたら、
北朝鮮からミサイルが
飛んでくるかも知れず、
イスラエルが
明日の長崎の平和式典に
招待されなかったことを根に持ち、
日本でテロを炸裂させるかも知れず。
でも、やはり、私たちは
明日、何が起こるのかを知らず、
目の前の「現在」をただ、生きる。
明日。
私たちは明日を知らず、
現在をただ生きていく。
明日。
それは希望であり、
同時に、絶望である。
希望か絶望か、
どちらになるか、
それを決めるのに、
私たち人間は何ができるのだろう?
私たちはなぜ、こんなにも無力なのか?
明日、私たちはどんな朝を、1日を
迎えるのでしょう?
明日を迎え、眠りにつくことこそ、
生きるということなのでしょうか。