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「母系社会」の可能性

ウェブジャーナルの記事にナヤールの話が出てくることは珍しい。

https://president.jp/articles/-/87959

ただ、若干言葉足らずのところがある記事に見えなくもない。

確かに、父系出自の社会に比べると母系出自の社会は少なく、インドのケララで展開されていたナヤール・カーストのケースは何人かの人類学者や社会学者の注目を集めてきた。目立つところだとキャスリーン・ゴフ*や中根千枝がいる。社会学だと山根常男が論文を書いている。

*ゴフの論考(Nayar: Central Kerala. University of California Press. 1961など)は、若干ゴフのフェミニズム的な関心に引きずられているようにみえなくもないので、所々割り引く必要があるかもしれない。

▼母系社会とは

ナヤールは確かに母系社会によく見られる独特の構造を体現していた。中国のモソ族と同じく「妻問」の制度がある。ナヤールでは「サンバンダム」関係という。男性が夜に女性の家を訪問し、朝には帰ってしまう。子どもは女性のいる家族集団の中で、家長である男性(女性にとっては兄弟、子どもにとってはオジであることが多い)の指導の下で育てられる。父は子育てに参加しない。

母系社会といえど基本的には家父長制である。父系社会では、男性は妻を集団に招き入れ、子どもを産んでもらい、自分の集団内で育てる。妻問婚の母系社会では、男性は自分の姉妹に子どもを産んでもらい、自分の集団内で育てる。自分自身の子は、たまに訪れて関係を持った女性の家族集団に属するので、それほど関係が強くない。自分の子はよその家の子、自分の姉妹の子(甥)こそが同じ家族の子(継承者)である。

母系社会では、結婚によって父子関係を確立する必要が小さい。男性と男性の甥の関係は、結婚ではなく「分娩」によってのみつながっているため、血のつながりの確信度が高い。母と自分、そして母と姉妹の関係は分娩により明らかで、姉妹とその子との関係も分娩により明らかである。父子関係のようなあいまいさがない。父子関係のあいまいさを抑制するための姦通罪や嫡出推定などの複雑な制度は必要ない。

「一妻多夫」のような表面的な現象に注目が集まることがあるが、母系社会はある意味では父系社会よりも血のつながりを重視する社会であるともいえる。

▼カースト制のなかの母系集団

ナヤールは確かに母系出自の大家族集団を構成するが、それは独特のカースト制度によって成り立ってきたという側面もある。ナヤールの女性が訪問を受ける相手は、基本的に上位カーストであるブラフマン・カースト(ナンブーディリ・ブラフマン)の男性、しかもたいてい次男以下の男性だった。

ナヤールは自分たちでは貴族階級だと考えていたが、ナンブーディリ・ブラフマンの人たちはナヤールをシュードラだと認識していたらしい。その上で、サンバンダム関係で結ばれるナヤールの女性とは、正式の結婚というよりは愛人関係であると考えていた。それもそうで、ナンブーディリ・ブラフマンの長男は同カーストの女性としか結婚しない。次男以下で結婚相手がいない場合に、ナヤール女性を訪問していたのである。

ナヤールはそういった関係をむしろ歓迎していたが、それは自分たちの家族集団で育てる子どもたちがナンブーディリ・ブラフマンの血を引いていることで、カーストの権威付けになったからである。母系出自社会でありながら、父の血統は気にされていたわけだ。

*ナンブーディリ/ナムブドリは、ナヤールよりあとにケララ地方に定着、その地を支配した。ドラヴィダ系のナヤールとは違い、アーリア系だった。ナヤールはナンブーディリのカーストの教えを利用し、自らをクシャトリアとして位置づけたのだが、ナヤールのナンブーディリへの崇拝は相当なものだったらしい。

▼大家族と母系社会の条件

インドには大家族の伝統があり、ナヤールもその中に入れられるが、大家族というのは理想(選好)であって、経済的条件がなければ実現できない。

ナヤールは、しばしば百人を超える家族集団を構成していたが(中根千枝は500人の家族をみたという)、それが可能だったのは、ナヤール・カーストが土地を管理するドミナント・カーストだったからだ。

次に、ナヤールやモソ族のような妻問婚システムの母系社会は、根本的に近代社会とは相容れない。第一、少産社会において男性が必ず姉妹を持つとはかぎらない。それに妻問婚は、夫の拠点と訪問先の女性の拠点が地理的に近いことが必要になるシステムだ。平安時代の京都、特に貴族社会にはそういった条件があり、招婿婚がみられた*。資本の都合で地理的移動が要請される近代社会とは、やはり結婚(夫婦)単位の方が親和性がある。

*天皇の子を自分の拠点で育てることで権勢を得た藤原氏の家長は、ちょうどナヤールの集団(タラヴァード)の男性家長(カーラナヴァン)にあたる。

▼現代における「母系社会」の可能性

上野千鶴子はかつて、母系社会の研究は「母系制の世界史的敗北」の論証になってしまっていると書いていた(『女は世界を救えるか』勁草書房)。実際には父系(出自)社会も資本主義の前に敗北し、名残として残ったのは(父系制ではなく)家父長制だったのだが。

ただ、父系と母系の違いのうち、焦点を当てる価値があるのは権力勾配ではなく(そもそも母系社会も多くは家父長制であった)、結婚(夫婦)関係を重視するのか、分娩(母子)関係を重視するのかという違いである。多くの社会において結婚の意味とは、子に父を割り当てる制度だった。今でも、民法では結婚と嫡出推定は強く結びついている。逆に言えば、子に父を割り当てなくて良い社会では、結婚の意味がかなり小さくなるということだ。

父系出自社会では、父が間違いなく自分の子を持つことの意味が大きかったので、結婚が必要だった。女性を自集団内に囲い込むことで父子関係の曖昧さを減らしたり、嫡出推定*を利用して(本当は他の男の子であっても)強制的に自分の子にすることができたからだ。近代以降は、むしろ結婚は子の生活保障の手段として父子関係を安定化させる制度であった。
*嫡出推定とは、女性が結婚しているときに生んだ子は、女性の夫の子だとすること。

ここで社会保障が充実すれば、子の生活保障における父の割当は必要性が減じる。さらにいえば、分娩関係(母子関係)を重視する理由もないのだから、一部の論者が提起する子とケアテイカー(男性でも良い)の「ケアユニット」があれば十分で、やはり結婚といったかたちで成人どうしの持続的関係を制度化する必要もなくなる。

要するに、母系社会を考察することで現代社会において何か参考になることがあるのだとすれば、女性の権利がどうだということではなくて、「結婚がない社会をどう構想できるのか」ということなのだ。

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