美醜について
先日、昼休みにメシを食いに外に出たところ、勤務先の同僚の若者2人が歩いているのを見かけた。
一人は私が常々「キレイな人だなぁ、彼氏もいないということだが、なんともったいない・・・」と思っている女性であり、もう一人は私が常々「うわ!なんという男前だろうか。私を含めて爽やか系イケメン揃いの我が社ではあるが、独身者の中では今はコイツが一番だな」と思い、仕事で話しかけられたりする度、なんでかドキドキしたりしていた男である。
そんな2人が楽しそうに談笑しながら連れ立って歩くのを見て、私はとても幸せな気分になった。
そういえば、まだ私が初々しい新入社員だった頃は、ある職場の先輩女性(かなり年上)が私のことを気に入ってくださり、「うわー、今日もエエ男やねぇ」などと頻繁にからかわれていたりしたものだった。
ある日、これまた当時の評判の美人(用もないのに他部署から見物人がくるほどの)だった女性と私が、たまたま仕事の打ち合わせで2人で並んで座っていたところ、その先輩女性がやってきて、「いやー、お雛さんみたいやな!」などととても嬉しそうに言われたことがあったっけ。
その時はコソバユイばかりで、「何をおっしゃるやら」という感想しか持たなかったのだが、今となってみれば、僭越ながらとてもよくわかるような気がする。
で、昨年末の帰宅時、身動き取れないほどの満員電車の車内で私の目の前にきたのは、「野生のイボイノシシが漂白に失敗して、ふて腐れてメタボまっしぐら」みたいな凄まじい容姿の女性(?)と、どこかが悪いのでなければ絶対何かに呪われているとしか思えないような貧相でやたらと縦長の男性のペアであった。
もう、一見しただけで顔をそむけたくなるような感じだったのだが、なんせスシ詰めの車内なので身じろぎもままならない。
そんな中、常人の倍以上の容積を占めやがっているだけでも窮屈でムカツクというのに、その不吉に膨満した生物は口を開くと聞くに堪えないような「オタッキー」な話をし始めたではないか。
「こ、これが噂に聞く「腐女子」か!カンベンしてくれ!!」という私の心の叫びもむなしく、残り少ないMPが削り取られていくような話が延々と続く。
しかもサイアクなことに、目の前のスライムベホマズンを固太りさせたような生物は何やら欲情しているらしく、頬に食い込んだメガネの奥の眼を上目遣いに潤ませて、ブリッコのつもりなのか知らんが舌足らずな幼児トークを開始・・・
書いていても気持ち悪いばかりなのでこれ以上の描写は控えるが、なんせ不快であった。
(-_-;)
で、ほうほうのていで目的地で下車しながら思った。
「容姿が醜い」ことは、それだけで「悪」なのだろうか?
「容姿が端麗」であることは、それだけで「善」なのだろうか?
また、容姿の美醜は、どこまでが本人の責任なのだろうか?とも。
数々の仏教典を読んでしみじみと感じるのは、当時(2500年以上前)のインドでは、「容姿端麗」こそが何ものにも勝る「美徳」であったということである。
「善い行いをしたものは、来世には美しく生まれ変わる」という因果応報が大原則となっているのである。
これはブッダも方便として利用しており、「オマエがブサイクなのは、前世の行いが悪かったからだ」とキッパリ叱っている一文があったりする。
従って、「私の言うことをきけば、美しくなれる!」とも。
しかしながら、究極のところでは、「色即是空」であるのだと。
荘子も、「人間の美醜の感覚は、他の動物たちと共有できるものではない」と説いている。
それでは、この容姿の「美醜」と、それを見た時に起こる「快不快」の感情は、いったい何に由来するのだろうか?
「より効率よく自分の複製を作り出し続けたい」という生物的要求に沿うかどうかを遺伝子レベルで判断しているのだろうか?
そういえばブッダは、「「快不快」をなくすためには、まず美醜を含む「分別」つまり「是非の判断」を捨てろ」と説き、あわせて「子どもをむやみと欲しがるな」ということも説いている。
そして「女を(快不快の対象として)見るな」とも。
つまり、本当に「やすらぎ」を得たいと願うのであれば、「愛」などというものは真っ先に解消しなければならない障碍であるということだ。
クマラジーヴァたちがサンスクリットから中国語に仏教典を訳した時に「愛」という漢字をあてはめた元の概念は、日本語にするならば「狂おしく限りのない欲望」というようなものであった。
「貪」や「執」と同じようなニュアンスだったのである。
中村元氏によると、「愛」とはつまり、「(飲んだら身体に悪いことがわかっているのに)目の前のドロドロの水たまりの水が飲みたくてたまらず、飲み始めたら一心不乱に飲み続ける」というようなものなのだそうだ。
なんのロマンチックなこともそこには存在しない。
どうやら、現代人は「愛」というものをすっかり誤解してしまって久しいようである・・・
・・・ちょっと話がそれた。
とはいえ、「愛」が「美醜」を生んでいるというのは、恐らくそうなのだろう。
(その逆は、ない)
そして「美醜」は、「快不快」を生む。
そして「不快」なことは「苦」であるし、「快」も究極的には「苦」につながる(失うことを恐れなければならなくなるから)。
なるほど、「愛」こそは捨つるべけれ。
で、「愛」がなくなったら無味乾燥な世の中になる、というわけではなく、そこにはもっと穏やかで優しい思いやりに満ちたものを置き換えるべきなのだそうで、それをクマラジーヴァたちは、「慈」とか「悲」とかの漢字で表現したのである。
そうか、キリスト教が伝来したときに「愛」の使い方を間違えたんだな、きっと。
「愛」ではなく、「慈しみ」としておけば、少なくとも今ほど混乱はしなかったかも。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?