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どう考えてもどう転んでも「与えよ、さらば与えられん」は法則でしかない

いろいろな本を読んだり、四苦八苦して人生を迷走したり、時には、怒りのエネルギーを爆発させたり、そんな紆余曲折して、最終的にたどり着いたのは、幸せになりたいなら「物事に対する執着をなくす」のがよく、そのために一番良い方法は「自分が得る前に、相手に与える」ということだったわけです。

20代のころのボクは「与えよ、さらば与えられん」という有名な言葉を、実行するのが難しい夢物語、いやお花畑みたいな話だと思っていました。

あっ、最初に言っておくとお花畑みたいな人は、大嫌いなんで、こういう表現になります。

当時は、捻くれ者です。

なんせ「いいこと言ってるけど、現実問題として与えてばかりでは損をする」という考えだったのですから...

そういうわけで、その言葉が、本当なのかどうか確かめることもしない人生を送っていたんですよね。マジで拗ねてたなぁ(笑)

ところがです、あることがきっかけで少しずつ人生が好転し、今では「与えることなく生きても、人生は無意味だ」とさえ思っています。

ボク自身、いつも実行できているわけではないのですが...

仲のいい人に与えることは簡単なんですが、苦手な人に与えるのは罰ゲームに近いので、人間として未熟だなと思っています。

今回は、とあることで寄付したことで、停滞していた人生が流れ出した時のことを書きます。

「与える」ことによって、自分が救われたっていう体験

以前は、人へのプレゼントにあまりお金をかけなかったし、寄付は「お金が余っている人」がすればいいと思っていました。

大震災や大きな災害があった時でさえ、寄付するという考えは少しも浮かびませんでした。

当初、いろいろ活動していた事業が破綻、そして、かなりゴタゴタと揉めて離婚。不安や、悩みが多い毎日で、自分のことで精いっぱいだったのです。

部屋の中は、不要な物がいっぱいあって、長期間にわたってダラダラしていました。

目が覚めている時間が、本当にイヤでイヤで、安心できるのは、眠っている時だけでした。

この状況から抜け出したいと思っていても、何から手をつけて良いかわからなくて、「こんな生活をずっと続けていくのかな」と思う毎日でした。

そんなボクが、ある時発展途上国の支援団体の話を聞いて感激して、何故か財布に入っていたお札を全額寄付したんです。

当時、滋賀県彦根市に住んでいたので、自転車で帰ればいいやーと気軽な気持ちになって行さたんですよね。まるで、「何者か」につき動かされているような感覚でした。

その時から、現在までの流れを振り返ると、その時の寄付行為は、自分の意志というよりも、もっと尊い存在の導きだったように思えます。

もっと尊い存在の導きである「何者か」がボクを救うために、そのような行動を取らせたのかなぁと、今では、そうとしか考えられないんですよね。

その当時の自分にとっては、出すのに勇気がいる(といっても、諭吉さん2枚、とても高額な)金額でした。

その後、宝くじがあたったとか、逆玉の輿に乗れたとか、石油王になったとか、壮大な夢物語が展開されたわけでは全くないです。(期待した人、すみません)

ただ引っ越したいのに、面倒くさくて物にあふれた汚い部屋にダラダラ住みながら、仕事をしていたのが、ある日、いきなり行動力が出て部屋探しをはじめました。

それまで引っ越しに満足したことがなかったので、「どうせ予算内じゃ希望通りのところなんか見つからないし」と思っていたのに、願いごと手帳に書いた希望条件を満たした物件があっさり見つかって、びっくりだったんですよね。

しかも人気があって、滅多なことがない限り空きが出ないそうで、すごくラッキーだと言われました。

予算内、間取り、隣人、環境とか望んだ通りで「こんなに思い通りにいくことってあるんだ」とすごく驚いたのを、今でも鮮明に覚えています。

それから数年たち、生活全般が少しずつですが、いろいろ人生が変わっていきます。

今、仕事で関わって下さっている方々も、とてもいい人ばかりで、幸せだなって思います。

昔は、色んな悩みがあって、「幸せになりたい」「こんな人生から解放されたい」とずっと思っていました。

マジですよ。

離婚問題に取り組む時も、関係ないのに外野から余計な口出しをした人間を無茶苦茶恨みました。ま、仲介役に入るなんて、和解するときぐらいしかないですからね。

それがですよ、今では、自分はそれなりに幸せだと思えるし、気持ちに余裕ができたので「与える」ことをあまり躊躇わなくなりました。

あの時、寄付をせず、引っ越しもしなかったら、今でも大きな不安を抱えたまま生きていたかもしれませんね。想像すると、ちょっとゾッとしますけど...

あれは、間違いなく、人生の転機でした。

間違いなく「与えよ、さらば与えられん」は法則だと思う

「ヒマラヤ聖者の生活探求」に「与えよ、さらば与えられん」は法則であるという話が書かれていたので紹介します。

またソロモンを思い出してごらんなさい。
彼は(中略)我が為ならでひたすらに人の為に奉仕せんことを願ったのです。
このことによって彼は前代未聞の富を得、その上彼の求め得る力以上の長寿と名誉とを得ました。
(前略)
与えることによってわたしたちは因果応報の誤つことなき法則を発動させます。
与えればたとえ返礼など全く考えていなくても返礼をさけることは不可能です。
なぜなら、あなたが与えた豊かさはあなたに返ってきて初めて法則が成就するからです。
『与えよ、さらば与えられん、量りをよくして押し入れ、ゆすり入れ、溢れ出るまでに計りをよくして汝の胸に与うベし。汝の計るものを以て汝も又計らるべし』とある通りです。

ベアード・T・スポールディング「ヒマラヤ聖者の生活探求」第1巻

法則といっても、与えたから見返りがあるというのではなく、「何も心配しないで与えなさい」という意味に、個人的にとらえています。(いいように自己解釈、自己咀嚼してますw)

不思議なことに「なくなることを心配しなくていい」と考えるようになったら、生きるのがすごく楽になったんですよね。

ただひたすら与える

与えた相手から何もかえってこなくても、損をしたわけではありません。

必ず、何らかの形で「対価」は受け取ることになるんです。不思議なんですけど...

ボクは、見返りを求めず誰かに与えた後、必ず物事がうまく、円満に進み続けています。

予想外の展開が起きたり、奇跡的にトラブルを回避できたり、不思議なことをたくさん体験しました。

要は「与える」ものはお金じゃなくてもいいんですよね。

誰かがつらい思いをしていたら話をきいてあげるとか、誰かの手伝いをするとか、そういうことでも全然OKだと思うんですよ。

相手を思う気持ちがある、それが一番大事なんだと経験からわかりました。

通常であれば「ギブ&テイク」が普通なのかも知れません。

でも「ギブ&ギブ」って、すごく気分がいいですよ。

ただ、ひたすら与える。

何の見返りも期待せず。

なのに、たくさん返ってきたり、物事がうまくいくんです。

生きていくことは、最初は愛せなかった人や、物事、事実を、少しずつ愛せるようになるための旅路みたいなものだという視点で見ています。

ま、なんでも経験したことに価値があるわけです。

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