「新・小説のふるさと」撮影ノートより『センセイの鞄』について思ったこと。
夢の中のツキコが惑う不思議な干潟は見つけられないから、せめて子供の頃のおぼろげな潮干狩りの記憶の破片を拾おうと君津、袖ケ浦、木更津を貫流して東京湾にそそぐ小櫃川の河口に広がる盤津干潟に行った。
アクアラインで木更津に着いた頃は日暮れて、木更津港に浮かぶ中之島へつながる大橋は天空に突きだしていた。そのスロープを辿ると港は唐紅色に染まってしみじみと寂しかった。工場地帯の風景からはのどかな干潟など思い浮かべることなどできなかった。
翌日、黄金のお風呂で有名なリゾートスパの南端の海に降りる梯子をこわごわ降りた。今日の干潮は昼過ぎ。南中した太陽が少し西によると砂紋の陰影が層となり、窪みに残る潮が眩しく乱れた光を放っていた。砂と潮と光のレゾナンスは強い目つぶしを私に食らわせて考えるでもなく考える不思議な状態にさせた。風向きで潮が匂った。なるほど干潟にくることはできたが、センセイの〈鞄〉の写真は撮れていなかった。それもそのはずだろう。喪失感と思い出のない交ぜとなった心持ちを入れた、その空っぽな鞄なぞ見つけられるはずはない。それはツキコの鏡台の脇に置かれているものなのだから。