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自己紹介|心に斬りこむ侍ライター

こんな時代にこそ、魂の息遣いを感じる文章を

はじめまして。

トルコ在住コンテンツライター、Junto Miki(三木純人)と申します。一介の素浪人、いわゆるフリーランサーに過ぎませんが、以後お見知りおきを。

ブロードバンドの浸透により、ネット上にはコンテンツが溢れかえっている現代。

さらにはAIの登場により、誰彼問わず無難な文章をあっという間に作れるようになりました。

欲しい情報がピンポイントですぐ手に入る。気になる疑問の答えが一瞬で分かる。

そんな近未来の世界が、感慨を抱く暇もないほど足早にやってきました。

でも、じんわりと温かみのある言葉遣い、人のココロをそっと撫でる文章というものは、AIには到底作れないものです。

私は、そつがないけど無機質な文章ではなく、粗があっても温度のある言葉を綴りたい。文章の向こう側に魂のたしかな息遣いを感じる、そんなコンテンツを生み出したい。

今の今までnoteの何たるかも知らなかった自分ですが、そんな思いで、今更ながらnoteに一旗揚げさせていただきました。


人生の航路 第一章~揺籃編~

故郷の長崎港

生まれも育ちも長崎県。子供のころから、周りと同じことはしたくない性質(たち)で、我が道を行くスタイルを貫く。

歳が離れた兄や姉がいたせいか、幼少の時からおませな男児だったそうだ。幼稚園は子供っぽいから行かない!と主張したし、歯医者に行くときも診療室に母親が同伴するのが嫌だった。

小学生の時からずっと、一番得意な科目は国語だった。己を自在に表現できる作文や絵画も好きだった。

日本の戦国時代はもちろん世界史も好んでいたが、大多数が関心を寄せるアメリカやヨーロッパには興味なし。ロシア極東や中央アジアに思いを募らす。

高校卒業後

敷かれたレールには乗りたくない。高校卒業後、そんな思いで進学も就職もせず福岡に上る。

シルクロードの足跡をこの目で見るという夢のため、アルバイトでお金を貯めつつロシア語を独学する。

時は2008年8月、25歳にして一念発起、アゼルバイジャンの首都バクーに飛び込む。1年間現地の大学でロシア語を学びつつ、ミステリアスな異国文化を肌で体感するつもりだった。

石油で潤うアゼルバイジャンは古今入り混じる街並み

しかし、さすがは旧ソ連を色濃く残す国。そう簡単には問屋が卸さない。すべての書類を揃えて申請しても入校許可がなかなか下りない。

そうこうするうち時が過ぎ、滞在許可期間の1ヵ月間も終わりに迫る。滞在許可の延長申請に警察署に赴くも、やはり許可が出ない。

活路を求めて在バクーの日本領事館に赴けば、此の国に滞在するなら知っておかねばならない事実があるとのこと。公的機関でも袖の下が必須というではないか。

衝撃を受けるのと同時に、これぞ異文化と接触した瞬間なりとゾクゾクするものを感じた。

生きるというのは、こういうことを言うんだ。決められたことをその通りにすれば物事が問題なくすんなり運ぶ?そんなのはつまらない。

人生の波は興奮を呼び起こす

予想外のことが常に起こりうる。思い通りにいかないのが当たり前。どんな高波も鷹揚に受け流し、人生の舵を右に左に操作する。

それが生きている実感を生むんだ。子供のころから戦国時代に魅力を感じ、戦国武将に憧れていた理由が分かった気がした。


人生の航路 第二章~動乱編~

アゼルバイジャンに滞在したのは、2008年8月中頃~9月中頃の僅か1ヵ月。滞在許可を更新できなかったので国外に出ざるを得なくなった。

早くも人生の航路を変えなければならない。しかし、だからこそ人生は楽しい。

向かう先はトルコ。決め手は、アゼルバイジャン語と似通っているから。じつはアゼルバイジャン滞在中に、言語の興味がロシア語からアゼルバイジャン語に移っていた。

アゼルバイジャン語はロシア語と同じキリル文字を使うが、言語そのものは全く異なる。生まれて初めて聞くアゼルバイジャン語は、テレビの深夜の砂嵐のような音感だった。

アゼルバイジャンの首都バクーからトルコ・イスタンブールまで、陸路で丸2日。バスでガタゴト揺られながら新たな異国の地を目指す。

カモメとイスタンブール

イスタンブール。そこは清濁併せ呑む大都市であった。あらゆる民族、文化、宗教が混在し共存するメトロポリタン。

トルコ人はアゼルバイジャン人と民族に近いというが、実際には外見だけではトルコ人と分からない場合も少なくない。

アラブ系トルコ人もいれば、金髪碧眼のトルコ人もいる。中央アジア系の見た目のトルコ人もいる。「トルコ人」とは、トルコに生まれ国籍を持つ者の総称として捉えたほうがよさそうだ。

そんなトルコ人は往々にして人懐こく、距離が近い。熱しやすく冷めやすい。すぐ怒るしよく笑う。

一般的な日本人と正反対ではあるが、”一般的”から常にはみ出していた自分にとってはトルコ人と付き合うのは心地よかった。

日本人はトルコでの滞在許可が3ヵ月間不要で、イスタンブール大学付属の言語学校にもすんなりと入校できた。

賄賂を求められることも一切なく、拍子抜けしたほどだ。全体的に、アゼルバイジャンと比べてヨーロッパ感があり垢ぬけて見える。

トルコ語が全く分からない状態で始まった授業では、最初に身振り手振りでトルコ語を教わった。トルコ人教師は英語を話さなかった。

それでも何とか伝わるのだから、改めて人間の造りには驚かされる。2、3ヵ月も経つと簡単な会話はトルコ語でできるようになっていた。

白い肌に黒髪のトルコ人女性はエキゾチック

トルコ語が急速に伸びたきっかけは、トルコ人の彼女ができたことだった。

彼女は幼いころから、トルストイやドストエフスキーなど重厚な本をかたっぱしから読みこんできたらしい。

そんな彼女とトルコ語で文学を語ったり、文化や歴史話に花を咲かせたりするうちに、トルコ語の語彙プールは圧倒的に広がった。

トルコに1年ほど滞在後、日本に帰国。その間は遠距離交際を続け、1年後トルコに戻り結婚に至った。

結婚当初はトルコに住みながら、ネット上で仕事の機会をうかがい続けた。2011年当時はクラウドソーシングも今のように隆盛していなかった。

結局、トルコ語を学びたい日本人をSNSで見つけてオンラインレッスンをしたり、個人ブロガーの運営手伝いをしたりしながら細々とやっていた。

それはいい。贅沢はせずとも幸せなら。ただ、残念ながら結婚した彼女は精神的な病を抱えていることが判明。

それに伴うストレスを新婚当初からひしひしと感じていた。その後、彼女のケアおよび適切な治療のため日本に移住。

それからおよそ3年近く、今でも思い出したくないほど辛い日々が続いた。もちろん一番辛いのは、病気を抱える本人なのに違いない。

しかし、スローペースながら徐々に治療の成果が表れているのに励みを受け、二人でなんとか耐え抜いていた。

その後、投薬治療も終息に向かい、薬なしでもやっていけるほど精神が安定したのは、まるで奇跡のようだった。


人生の航路 第三章~動転編~

6年強の日本滞在を経て2018年、満を持してトルコに戻る。

婚前に思い描いていた楽しく暖かい結婚生活。それが今、彼女の故郷でようやく実現する。

その期待に胸をふくらませていた。実際、一時的に実現したのだ。一時的に。

2020年、世界中がコロナ禍につつまれる。

~続く~

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