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我は誰そ そこにあれども

女の子が年に12回ほど、どんな風に苦しいのかはわからないけど、おそらく僕にも同じように感情の起伏が激しい時がある。(こんなことを言ったら誰かに怒られるかもしれないけど...)

ひとりになりたいのに、ひとりだとすごく寂しくて、自分の中で大きな矛盾が膨らんでいくのを感じる。人との繋がりがただひたすら鬱陶しく、でも喉から手が出るほど欲しくなっていく。どっちでもない自分に吐き気がしてなんか全部どうでもよくなって、どうにでもなる気がして、ボケーッと半日くらい過ごすこともある。そんな時の自分が嫌いだから、気が済むとケツに火がついたように動き出す。漫画だったら一面にガーって太字で描かないと表現できないくらい、一気にその半日を取り戻そうとする。運が悪いと、それでまた疲れて同じ日をリピートする羽目になる。

こういう時によく考えるのは「なんで生きてるんだろう?」ってこと。疲れててまともな思考が働かない時は、生きてる意味が本当に見つからなくて、ポンって宙に放り出された感覚に陥る。なんのしがらみにも捉われなくなると不思議で、ゲームの電源を切るみたいに、本気で死んでみたくなる。そう思う反面、その時の自分の異常性に気づいているから行動に移したことはないんだけど、「自ら命を絶つ人ってこんな気持ちなのかな」って思ったりもする。

そこまで考えると、「自分は誰だろう?」ってなる。何も意識していない時は"絶対値"として自分を捉えてるけど、こういう時は"相対値"として自分を捉えているような気がする。自分は自分だけでは誰でもなくて、誰かにとっての誰かでしかないってこと。そうやってしか自分の存在を証明できないってこと。不思議と、それを否定する理論がこういう時は見つからないんだよね。一歩下がって考えてみても、自分が森羅万象にとっての誰かでしかない感覚を抜け出せない。

「自分は、誰かにとっての誰か」というところまで来ると、あらゆる繋がりを切りたいと、一時の感情に身を委ねて考えてる(切った時のことを現実のように捉えてる)僕は、自分を自覚できなくなる。さっき話した、ポンって宙に放り出された感覚。だって、繋がりでしか自分を証明できないのに、繋がりを切っちゃってるんだから。


こんな感じのモードに入るのは決まって「褒めて欲しいのに褒められなかった」時だ。(当人は悪気も自覚もないから一層に厄介なんだけど)頑張ったことを当たり前だと捉えられ、褒められるどころかミスの指摘だけが残る。尊敬している人たちだけど、同時に「この部分だけは絶対に似たくないな」とも思う。些細なことに感謝しよう、と強く思い直すことができる。書いてしまえば「承認欲求」の4文字に要約できる悶々とした感情だけど、人間の複雑性に感心しつつ、言語の「便利さ」に称賛の意を評することにする。


ここまで書いておいて、僕の場合は心的要因がほとんどなので、人とバカな話をするとだいたい回復する。だから逆に、誰かに相談するほどのことでもないと勝手に決めつけて、誰にも話したことがないのでした。

そして、この記事を公開する日には、これを書いた日(4月23日)の気持ちのことなんて理解できなくなってるんだろうな。

我は誰そ
そこにあれども
難きことよ

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