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磨くのは キャラという名の

最近、久しぶりに『何者』という映画を観ました。「何者」にもなれない大学生達が、お互いにお互いの腹を探り合いながら社会人を目指していくという就活の話です。

たしかに確固たる誰かになろうとしていたあの頃は、すべての就活生が敵ですべての先輩が追い越すべき壁だと思い込んでいました。そんな自分も、苦労して就職した会社を2年で退職し、新しい環境で働き始めてもう1年が経とうとしています。

その過程で感じたのは「キャラ」という捉え方の重要性でした。グループの中に必ずいる「〇〇キャラ」。そのポジションこそが価値である、いや、それでいいという妥協に似たような感覚で十分なんだと思い知りました。

少し細かく説明します。

思い出してください、「〇〇キャラ」というのは勝取るでも打ち立てるものでもなく、周囲からの暗黙の承認を得て自然と成っていくものでした。「No.1にならなくてもいい、もともと特別なOnly one」なんて有名な歌詞がありますが、私はこの歌詞の意味を「世界中のNo.1になる必要なんてなくて、近くの人にとってOnly oneな存在であればいい。見えない相手と比べくていいんだよ。」と勝手に解釈しています。そんな考え方です。

仕事における価値の発揮の仕方も同じだと思うんです。僕の話をすると、広告会社に勤めていた僕は保護ねこの業界では「広告キャラ」、広告業界では「ねこキャラ」として扱われています。別にどちらの業界でも大したことはしてませんが、溜めた知見を違う畑で発揮するとそれは価値とされ「キャラ」として認識されました。

同じことをまめくらし(現職)に当てはめると、「店長」「カメラマン」「経理」「事務」「ドライバー」「イベント企画」「イベント設営」「DIY」などなど、いろんなキャラを任されています。それは、他のメンバーよりそれができたり、他のメンバーよりそれに充てるリソースがあるという理由でしかないんです。つまり、キャラとは相対的であるということ。言い換えると、絶対的なキャラにならなくてもいい、ということなんですね。

そうして価値を発揮できる環境を渡り歩くことで絶対的なキャラに育っていくこともまた大切なんですが、長くなるので割愛します。参考記事はこちら。


さて。

これだけ情報にあふれた社会なので、いろんなジャンルのすごい人を目にすることが多いと思います。そういう人と比較してネガティブな感情になるよりも、目の前の人にどうやって価値を届けられるかを考えた方が、自分を許せる気がします。すごい人のことを見る時だって、「全然歯が立たないや」「自分はダメだ」って悲観的に捉えるんじゃなくて、「この人のこういうところを盗めばあの仕事に活かせそう」「このスキルを伸ばせばこの人に追いつけそう」みたいに捉えた方が有意義なはずなので。

(だらだらと書いてしまいましたが、いまの頭の中はこんな感じ。機会があればこの内容を整理して書き直したいと思います)

磨くのは
キャラという名の
市場価値

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