人生の4分の1が終わったとして。死生観。
本日、めでたく26歳を迎えました。黛純太です。
人生が100年続くものだとしたら、4分の1が終わった計算になりますね。スラムダンクで例えると、ちょうど体育館が血に染まって三井があの名言を生み出した頃です。まだまだ先は長い。
小学生の頃に桜木花道と出会って、いつの間にか彼らの年齢を追い越してこんな歳になっていました。"ダンコたる決意"なんてものはまだ見つけられていませんが、きっと一生ねこのことを考えながら生きていくんだろうな、ってことくらいは想像がついています。
話を戻すと、僕が生まれてから四半世紀が経ちました。関西で大きな地震が起きたのも、25年前の出来事です。そう考えると、長いようで短くて、本当にいろんなことがあったと強く感じます。
これまでの25年間に点数をつけるなら、80点。
小学生だった頃、特に好きでもなかった理科の先生に言われた「100点をつけたらそれ以上良くならないから」という大人の都合丸出しの理屈が理解できるようになってしまいました。少なくともこの人生が100歳までは続いて欲しいと思えるほどに幸福感を感じているけど、それでも自分が嫌いになることも多々あるので80点。まだまだ楽しくなる気もするのでね。
そんな僕は、死について考える16歳だった。
両親は晩婚で4姉弟の末っ子。両祖父母との記憶はほとんどない。だから、高校生1年生の頃に愛猫を亡くした時は特別哀しかった。哀しいのかよくわからないくらい哀しかった。心にぽっかりと穴が空いたようで、いろんなものが怖くなった。その中でも、同級生の親に比べると高齢な両親の死が、格段に怖かった。3.11も重なり、いつでも自分たちが「死者数1」になり得ると知ってしまったことも、思考がマイナスに向いた理由のひとつだったと思う。
26歳。いま。両親は存命だけど、おそらく僕より早く死ぬ。僕も死ぬ。
僕たちは毎日、誰かの死に関与している。それが人だけではなく動物や魚、昆虫なども対象だといえば、納得してもらえると思う。死は小説やドラマだけの出来事ではなくて、常に僕らと隣り合わせなんだって感じられる。なら、僕たちの「死」という現象について深く考えるべきだ、と最近は思う。ゴールを見据えずに走るマラソンは、つらいから。
どう死にたいのか。それまでどうやって生きたいのか。どこで生きるのか。誰と生きるのか。なんのために生きるのか。
その答えはいつでも何回でも書き換えていいと思ってるけど、ねこ。
『なんのために広告会社で働くの?』という質問が、いま思えば人生のブレイクスルーだった気がする。小学生の頃からコピーライターになりたくて、広告業界に憧れ続けた学生生活。意識高く(笑)就職活動に取り組んでいた僕は、whyばかりを追い求めていたんだと思う。矢印が自分の過去(内側)に向いていた。「なぜ?」と聞かれると自分の経験から答えを出しがちだけど、それは紛れも無く過去の話。だって自分が既に経験してるんだから。そうではなく、「なんのために」「どんな未来のために」「誰の幸せのために」働き生きるのか。whyではなくwhat forの考えに変わった瞬間だった。就活中に矢印が内側から外側へ向いたのは、その後の社会人生活でも大きな意味を持ちました。折れた時こそ、自分の外に自分の存在意義があると回復しやすい。「ねこのためにも、まだ死ねない」ってお風呂で何回も唱えてた。
その質問を受けた帰り路、割とあっさり「あ、広告でねこを助けたいな」と思い至れたのは、大学の雑誌室で夢中になって『ブレーン』を読んでたから。社会課題と広告の結びつきが自然だった。これも好きが招いた必然的な結果だったんだと思う。「好きを仕事に」なんてカッコいいことは言えないけれど、僕は単に「好きなねこを幸せにしたい」ってシンプルな動機だけで動いてる。whatがはっきりしてるから、howである仕事が多少キツくても踏ん張れるんだよね。さらに言うと、howにも好きを混ぜるようにしてる。だから「好きな広告で大好きなねこを助ける」までは、簡単なことじゃ折れないよ。(言い方あれだけど)いまの会社だって大事なhowのひとつに過ぎないしね。折れそうな時、重要な判断をする時には必ずねこのことが最優先に来ているから、そういう場面で迷うことは少ない方だと思う。助けたいはずのwhatであるねこに助けられてる部分もあるってこと。お互い様。持ちつ持たれつ。
少し話は変わって、ねこを助けている僕は最近お肉を食べるのを控えるようにしている。彼らの死の上に成り立つ食事に違和感を覚えたから。その死に向き合えてないと気づいたから。自分がお肉を食べることが、前例主義の最たるものだと思ったから。誰かの死を見て見ぬ振りしながら生きるのはフェアじゃない。環境にも悪いしね。
多少の感情論は含んでいるけど、割と合理的に考えてこの判断に至ってるのでちょっと聞いて欲しい。誤解を恐れずに言うと、「犬や猫を食べることには嫌悪感を示すのになぜ牛や豚はokなのか?」って疑問に自分は答えられないって気付いたんだよね。牛豚鶏-犬猫鳥-人間の間になんの差があって食べる動物と食べられない動物に分かれているんだろう。
肉を食べることが必要だった時代もある。生きるために。でもいまは飽食の時代。そんなに頑張ってつくらなくなって実はあんまり困らないんじゃないかな。自分の「美味しい」という感覚とそのコストとなってる命を天秤にかけた時、肉を食べることに気乗りしなくなっただけの話なんだけどさ。「食物連鎖だ」って言う人がいるけど、それもすこしズレてると思う。これだけ自然の摂理を無視したことをしてるのに、この時だけ「自然に従おう」なんて主張はズルいと思うな。それに、権利の主張だけをするクレーマーが嫌われるのは現代社会ではありふれたことだしね。
とまぁ、
誕生日を迎えるにあたって僕なりにたくさん考えました。たくさんたくさん考えて、行き着いたのはどの話にも自分が中心にいるということ。(すこし哲学的だけど)自分は世界を自分の身体と心を通して認識しているわけだから、その中心にいつも自分がいるのは当然だよね。その自分である僕は、親の"自分じゃない存在"として生まれた。たぶんそれは受動的に。そうやって能動的に「自分」を増やす親は、やっぱり"ただ"すごいんだな。左腕がないからとか、4人産んでるからとかじゃなくて、ただただすごい。いい歳になって気づきました。
同じ悩みを持っていたかはわからないけれど、いま僕が考えている以上に大きな決断を数えきれないほどしてきているんだと思う。でないと、子供4人をここまで大きく育てられるはずない。子供の頃は鬱陶しくて邪魔くさいとしか思えなかったけど、少しだけ両親の立場に近づいて初めて、彼らのすごさに気づく。思い出せるすべての行動に愛を感じるようになりました。それは美化しすぎかな、でも、ありがとう。
最後まで読んでくれてありがとうございます。今回は最近考えていることをぶちまけるnoteになりましたが、それぞれの内容については今後丁寧に考えていきます。26歳の黛純太もよろしくお願いします。
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