世界が不完全だと知った日のことをいまでもよく覚えてる。
2001年9月11日。
飛行機がビルに突っ込んだ映像を見ても、何も思わなかったことをよく覚えている。そのあと、大人たちが大騒ぎをしていて「あぁ。なんか大変なんだなぁ...」とことの大きさを呑気に捉えていた。
崩壊したビルに取り残された人が大勢亡くなったと聞いた時は、なかなか信じられなかった。「飛び移ればよかったのに。」というのが当時6歳の僕の見解。当時の僕には、ビルが崩壊しているのではなく、ゲームの障害物のように地面にそのまま埋まっているように見えたようです。
歳をとったいま思えば馬鹿馬鹿しい考えですが、当時の僕はそれくらい世界を「完全」なものとして認識していたんです。不都合なことや理不尽なことは起きない。崩壊するビルも、辻褄のあったRPGの一幕のようにしか思っていなかったのかもしれません。
その頃から、世の中に対してある種のあきらめを持つようにありました。仕方のないこと、悲しいこと、知りたくもない事実。そんなことが世の中に溢れかえっている。同時に、その悲しい現実をなくす力など自分にないことも、自覚してしまっていました。これが、「さとり世代」ってやつなのかも。
子供の頃は風邪っぴきでした。よく寝込んで学校を休んでいた。
熱を出してる僕を寝かしつけた後、親は仕事に出かける。一人残されると寂しくて仕方なかった。その時間がすごく嫌な時間だったな。それでも自分は生きていくし、世の中は寝込んでいる僕を置いていくように動いていく。その時の絶望感、無力感は今でも鮮明に覚えてる。
10歳に満たない僕には1ヶ月や1年の歳月は途方もなく長くて、これがあと何十年も続くと思うと吐き気がした。風邪なのに狂ったようにゲームしてたのは、その気持ち悪さから目を背けるためだったのかもなぁ。
そう考えると、見通しが立つようになった今の人生は幾分か清々しい。
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