「いじめ」からの学び?
確か、高校に入ってすぐでした。
いきなり教室の裏に呼ばれ、殴られました。
生意気な目で俺を見た。
それが理由でした。
それから、彼のいじめが始まりました。
最初はいじめとは思いませんでした。
自分は悪いことをしていないという自信があったからです。
しかし、それは次第に、揺らいできました。
彼の執拗ないじめが続いたからです。
体育の時間に僕に向かってボールを蹴ったり、
突然殴ったり、罵声を浴びせたリしました。
そのうち、彼の友人も加わりました。
彼も一緒になり、廊下を歩いていると後ろから小突いたり、
見てるだけでむかつくと蹴ったりされました。
そんないじめられた僕を見て、
誰も助けてくれませんでした。
恐らく、助けたら、自分もいじめられるという恐怖でしょう。
なんとなく、それは理解できました。
でも、きつかったです。
孤独の中でいじめられる。これは、本当にきつかった。
どうしてここまで嫌われるのだろうか。
毎朝、毎晩、絶望的な気持ちになりました。
友達にも親にも相談できませんでした。
これは自分の問題だと思っていたからでしょうか。
恥ずかしさもあったと思います。
それで、好きな音楽を聴いたり、
本を読んだりして、気にしないようにしました。
自分は悪いことをしてない。
それが最後の砦でした。
昨日、フランクリンの夜と霧の存在を知り、
僕には微かな「希望」があったから生き延びられたと思いました。
ぼんやりでもいい。希望があれば、人は生きられる。
極限の状態で人は無感動になる。
そして、わずかでも「希望」を失うと人は死を迎える。
生きることは、わずかでも「希望」を持つことなんですよね・・・
僕はしばらく、いじめられた記憶を意識の底に沈めていました。
しかし、今はそう思いません。
その彼に復讐をしなかった自分を誇らしく思います。
そして、生きることを選択した自分を褒めてあげたいし、
この経験から導いたことを、求めている方に伝えたいと思いました。
この文章は2017年の8月11日に書いたものです。
それを僕の友達がひょんなことから再読してくださり。感想をいただきました。
自分ももう一度読んでみて、また新しい気づきがありました。
「希望」の大切さについて書いてありますが、最近ますますその大切さを感じています。
「過去」と「未来」に振り回されない「今」に希望を持つことの大切さ。
過去に嫌なことがあった。
未来に不安がある。
でも、
それを上回る熱量で、
「今」にフォーカスする。
すると、「今」納得のいく時間を過ごすことができ、
それが悔いのない過去として蓄積されていく。
その悔いのない過去が「今」を支え、それが未来へとつながっていく。
今日もその瞬間に、楽しく(これ重要)、情熱を傾けられたか?
できたか、できたかより、
そうするようにしたか。
「過去」でも「未来」でもなく、
一生に一度の「今」にそれができてれば、
それが自分には心地よいみたいです。
どうやって「今」を楽しめるか
冷静に考えてみて、自分がいじめられ続けたには、原因があることに気づいていました。
それは絶対に従わなかったからです。
どんなにいじめられても自分は謝りませんでした。
だからまた殴られる。
また嫌がらせをされる。
それでも謝りませんでした。
もちろん知っていました。
そこで従えば、暴力や嫌がらせは止むかもしれないことを。
でも、それ以上に自分の魂が許してくれないことの方が嫌でした!
そちらの方がもう生きていけなかっと思います。
そういう意味で、わりと早い段階で、大切なメッセージを体験できたことに感謝しています。
感謝。
そう感謝なんです!
感謝こそ「今」という貴重な時間を楽しく生きるキーワードだと思います。
ただ感謝は、それができる位の心の余裕、もしくはパワーがないとなかなかできないものです。
そこで、感謝できるようになれる1つの方法が「祈り」だと思っています。