マイノリティデザイン-読書感想文
さらっと読むつもりが一日で読破してしまい、いろいろ思い出したので忘れないうちに書いておく。
隻腕の祖父
私本人は多少の体質はあれど基本健康体で、世間が思い描くようなマイノリティではないのだけど、この本に当てはめると祖父がマイノリティで、右手の二の腕の先がない隻腕だった。
どうしてそんなことになったのかは深く聞いたことはなく、病気で切断せざるを得なくなったという事しか知らず、そもそも私が生まれたときからずっと腕がないので私にとっては当たり前で気にしたこともなかった。
祖父と特別仲が良いわけではなく、どちらかというと説教臭いので苦手だったけど嫌いではない。自動車整備場を経営しているので職人気質で面倒くさい親方なのだ。
もちろん自分の車は隻腕仕様に改造済みだし、仕事のリーダーはとっくに退いてるし、社長が使えなくても仕事は回るのである。
私はデザイナーだしゲームが好きだし絵を描くのが好きなので、もし失うのであれば手より足のほうが百倍マシだなと思うし、切らねばなるまいと悟った時の絶望は容易に想像できる。
しかし、祖父が義手をつけている姿は見たことがなく(あるにはあるらしい)、漠然と義足は歩けるようになる体の延長線なのに、義足ってつかむこともできないマネキンなんだなという、不公平感は感じたことがある。
祖父は自分の隻腕をマイノリティデザインが言うような弱みとは全く感じていないし、面倒くさがりなのでもし筋電義手があっても使わないだろう。祖父の強さは一種の諦めでもあった。
思い出しただけなので、特にオチはない。
隻腕のための何かを思いついてももう祖父はいないし。
自分もマイノリティ
この本では運動が苦手だとか掃除が苦手だとか、そういう弱点を抱える人もマイノリティなのだと言っていた。著者は運動が苦手でも運動を楽しむために、ゆるスポーツという新たな世界を作り出していた。
これに当てはめると私も立派なマイノリティ。そして同じ仲間に会ったことはない。
私は大人になった今でもめちゃくちゃトイレが恐ろしい。
潔癖症ではないけれど、無機質な陶器に溜まっている水が怖い。流れる音の水が怖い。流れる渦が怖い。詰まった時にあふれてくる水が怖い。センサーで勝手に流れるのもフタが開くのも怖い。なので、出先のトイレは滅多に使えない。見知らぬ土地に泊まる旅行もしない。
健康診断で生理で尿検査を出さなかったとき、終わりかけなら大丈夫ですよ病院のトイレで提出できますよと言われたけど、それもトイレが怖かったので断った。もう一回病院に行く労力のほうが安かった。
安心して使えるのは自分のアパートのトイレ、元職場のトイレ、実家のトイレ、祖父母宅トイレ、母校のトイレ。本当に数えるくらいしかない。
和式全然怖くないのでありがたい存在。
トイレ会社の人が善意でつけた便利な機能がすべて恐ろしくて仕方ない。本当に申し訳ないけどマジで困る。少数者のためのものは多数者にも便利なものである、というのはよくわかる。きっと自動で流れるのも衛生とか、少数者のためなんだろう。しかし私はその少数者のためのものだったであろう機能が恐ろしいさらに少数者。
このまま整備が進んですべてのトイレが最新型のなにもかも自動のトイレになったらますます居場所がない。頼む、進化、とまれ…!
下手すると、マイノリティの人より仲間がいなさそうな私のトイレ怖い問題。トイレが怖くて遠出しない弱点って、強みになったり生かしたりできるだろうか?そもそも仲間っているんだろうか?私が望むのは機能の退化なので、メーカーの人もいい顔はしないだろう。社会人歴数年のペーペーの私にはまだアイデアは出ない。