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マリリン・モンローの ”コカ・コーラ“ とアインシュタイン 〜書斎の中の仲間たち〜

 私の書斎の本棚には数々のオブジェ(オモチャ?)が並んでいる。そのモチーフは “空想の産物” から “実在した人物” にまで至る。そうだ! そもそも私たちは “イメージ” と “リアル” を何処まで区別出来ているのだろう?

 誰かの生み出した “感覚的なイメージ” は、何らかの “かたち” をもってして初めて私たちに受容される・・・例えば、意図(誰かの “感覚的イメージ” )に基づく絵具や音の集合としての絵画や音楽。そして、その “かたち” は、その受容において再び “何らかのイメージ” に還元され、私たちに理解される。多分、良くも悪くも誤解をともなう伝言ゲーム。軸足を変えれば、それがそのまま “消費” の構造となる。要はイメージの受け渡し。

 受け手からすれば、誰かが創った “イメージ” だろうが “実在” だろうがそれほど関係はない。コトの関心は、自分が「どんなイメージを消費するか」なのだから。よく考えてみれば “実在” だって怪しいものだ。
 
 例えばマリリン・モンロー。彼女と直接会ったことのある人ならまだしも、私たちの殆どは会ったこと、いや、直接見かけたことすら無いはずだ。そもそも彼女は私が生まれるとっくの昔に亡くなっている。要するに “こんな人がいた” というイメージを引き受けただけのことだ。

 だがこの “イメージ” という奴、なかなかどうして・・・そう侮ってはいけない。

 自分が生まれる遥か昔に亡くなっている異国の女優。まあ、 “肉感的な女優” というボーナスポイントを差し引いたみたところで焼け石に水。マダム・ヴォルフがやって来て「どちらがお好み?」 と尋ねたなら、迷うことなく「コンビニのレジ横で山積みにされているマガジン誌の表紙を飾る水着姿の肉感的なおネーチャン!」と答えるだろう・・・ちなみに、心の声でね・・・しかも囁く様に。  

 だがどうだろう? グラビアのおネーチャンがコカ・コーラのボトルに印刷されていたところで果たして書棚に飾るだろうか? 少なくとも僕の場合で言えばまず有り得ない。これもまたイメージの為せる技か? コカ・コーラのボトルにはマリリン・モンローで丁度いいのだ・・・それも絵だったりする。そのあたりのさじ加減が何故だか妙にお洒落に感じてしまうのだ・・・新井薬師の駄菓子屋で購入したモノなのに。要するに、これがいわゆる “デザイン” という奴なのだろう。

 まあ、ちょっとだけプレミア感のある情報を付け加えるのならばこのボトル、コカ・コーラボトル100周年記念のボトルだそうだ。また、そうした希少性(のイメージ)こそ、アメリカンなBarならいざ知らず、書斎という空間(のイメージ)にコカ・コーラを飾る上での軽い目眩にも似たある種の精神的な混乱に四の五の折り合いを付けてくれているのは言うまでもないだろう。

 ちなみに、机の上にはアインシュタインのフィギュアが鎮座している。

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10年以上前、ヴィレッジバンガードで購入したアメリカ製のフィギュアだ・・・正直、全く似ていない。にも拘らず・・・

    Q. 何故飾っているのか? A. アインシュタインだから。

 言っておくが、僕はその方面(物理)には疎い。門外漢である。E = mc2と聞いて「Tシャツの胸のところに印刷したらいいかもね!」と言ってしまう・・・実際に言ったことはないが・・・程度の知識しか持たない。

要するに、全てはイメージの為せる技。

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