秘密基地の思想 〜目白文化村の秘密基地・エリア21宣言〜
子供の頃、 “秘密基地” という響きに妙に心踊らせた記憶がある。
よく考えてみれば “秘密” でもなんでもない。それは子供社会に於ける公然の秘密。 そう、”秘密” という言葉の持つ排他性とは裏腹に、クラスの女子を横目に「今日、秘密基地に行くんだ〜!」などと敢えて大きな声で “これ見よがし” に宣言したものだ。
永井荷風は “人様に読まれる為の日記” を書いたが、まあ、そんな感じ。 いわば “秘密” というレトリック。だが、そこには “秘密” という言葉が本来持っていたであろう、その ”失われた意味” 以上に有益な “創造的な意味” 、ないしは “創造の金脈”が横たわっている様な気がしてならないのだ。
写真は戦後の目白文化村。焼け野原と化した関口家を再建すべく建てられた掘立小屋。
何もない空間・・・だが、そこには全てが揃っている。
きっと、そんな時こそ、 “創造力” がモノを言うはず。
時空を超え、ふと、手に取った写真に想いを巡らせてみる・・・戦後とアフター・コロナ・・・つい、今の私たちと重ねてしまう・・・深読みだろうか? それとも感傷?
一見、特別と思われる状態にこそ、コトの本質、本来あるべき姿が横たわっているのではないだろうか?
選択肢が無くなれば無くなるほど、潜在的な “可能性” に向き合うことを余儀なくされるのが生命力だとするのならば、それは図らずも、我々が本来有するところの “権利” を行使する機会を得たことになるとも考えられる。
“可能性” とは “権利” であり、 “可能性” を形にするのが “創造力“ である。
少年時代の “秘密基地” ・・・それ自体が創造を土台に建築され、かつ、無限の創造的作戦拠点として、いつまでも私たちに永遠のワクワク感を提供してくれる存在。
そう! 今こそ私たち・・・大人になった(相当、疑わしいが)? 私たち・・・にこそ “秘密基地” が必要なのだ。
ちなみに “エリア21” とは、誰も見たことはないが、誰もがみんな知っている・・・ “公共性を有するプライベート”というパラドックス・・・米軍の “エリア51” に掛けた言葉遊びで、僕の誕生日がたまたま9月21日だったから “21” というだけ。