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「自分の価値がわからなかった自分」から、「自分にしかできないこと」を見つけるまで


鈴木順也
ブランディングプロデューサー・デザイナー・講師・著者

自分にしかできないことがしたかったから…

「自分にしかできないことで、幸せを届けられる人に」を理念として、一人起業のブランディングや、起業サポート、コンサルティングを行なっている。40代なかばの時、グラフィックデザイナーとして働く会社員のまま人生を終えることに危機感を感じ、起業を決意。対人援助ビジネスを副業から始めたが、まったく結果の出ない日々に苦しみ自信を失う。その後、自分のキャリアで培ってきたデザインとブランディングの知識を活かし、個人起業家向けのブランディングサポート商品を作って伝え始めた時に一気に月商7桁まで成果が上がる。それをきっかけに会社を退職し、40代後半にして一人起業。顧客には地域No1のベーカリーショップ経営者、入会待ち多数の人気スポーツクラブ経営者、中高生専門の女性英語講師、女性ヒーリングセラピストなど。
顧客からは「店舗の他に自分でひとりビジネスを始めたかった時に自分の価値がわかって自信が持てた」「自分の価値が明確になって自信を持って伝えられるようになった」「自分にこんな大きな価値があると思えるようになった」という声をもらっている。

生い立ち



嫌われるのが怖かった…

まだ車体がオレンジ色一色だったころの中央線が走る、
東京・吉祥寺駅近くの病院で、僕は生まれました。

まだ、新宿の高層ビルもそれほど何本も建ってないころです。

父親は、毎日ぎゅうぎゅう詰めの電車に乗って
都心に通う中小企業のサラリーマンでした。

母親は僕が幼いころは専業主婦で、
ときどき内職やパートをやったりして、家計を支えていました。

東京郊外の団地住まいで、近所づきあいがまだそこらじゅうにあり、
明日食べるものに困るわけでもなく、
でもそんなに贅沢するほどの余裕はないごくごく普通の家庭でした。

子供のころの一番の楽しみと贅沢といえば、
二ヶ月に一回くらい、休日に母親の買い物についていき、
駅の近くのデパートの屋上遊園であそび、最上階のレストランで、
銀色のステンレススチール皿に盛られた山型のケチャップライスに
国旗が立てられたお子様ランチを食べることでした。

今思うと、当時デパートだと思っていたのは、
デパートというよりかは、大きなスーパーでした。

そのくらい自分にとっては、いろんなものが大きく見えていた時です。



僕が5歳の時のこと。

当時僕は、住んでいる団地内にあった、小さな幼稚園に通っていました。
ここは自分の家以外で、違う環境に自分が身を置いた、
はじめての世界でした。

ずっとずっと、楽しいことだけをしていたい…。

小さな幼稚園は、5歳の自分にとって、
そんな本能だけで生きていた自分の希望を叶えてくれ、
時にはいろんなことを学ばせてくれる、かえけがえのない場所でした。

その場所が、5歳の僕が生きていた世界の半分を占めていました。

自分がまだ知らない世界を知っている「友達」という存在、
「先生」という、母親以外で自分の味方になってくれる大人の存在。

目線がまだ地面近くにあった僕が、
自分の存在が体の大きさに関係なく、自分が存在していいんだ、
と思える世界のひとつのはずでした。

ある時、同じクラスの友達数人で、
「幼稚園ごっこ」をして遊んでいました。

僕は、自分が好きで気に入っていた女の子が、
「担任の先生役」をやっていたので、
そんな時ほど、無駄に必要のないやんちゃっぷりを発揮し、

「先生なんてキライだよーだ!」

などといって茶化していました。

気に入ってる女の子への、
関わり方がまだわからないころには、よくある場面。

その時、たまたま園庭の脇の外廊下を、
本物の「担任の先生」が通りかかり、
その先生をみつけた「担任の先生役」の女の子が、

「せんせい!すずきくんが、せんせいのことをキライっていいました!」

と、告げ口をしました。

〝いや、それはちがう…〟

と思いながらも、どうそれを伝えたらいいかわからず、

〝これはまずいことになった…〟

と、ひとりでドキドキして、立ち尽くすしかありませんでした。

そのあとに、このあとの僕の人生に、
ものすごく大きな影響を与えることになったある言葉を、
その先生が発しました。

「…そんなこと、すずきくんがいったのね?
それなら…先生もすずきくんのことは、大っキライよ!」

先生は、僕が立ちすくんでいた園庭の隅から、
少し離れた外廊下の途中で立ち止まり、
たしかに僕に向かってそう言い放ち、去って行ったのです。


引っ込み思案の性格の源

僕はその時、5年という短い人生で初めて感じる、
まるで喉の奥が焼けるような、
言い表しようのない焦燥感を感じました。

言いたいことがあるんだけど、
なんて言ったらいいか、わからない…。

この時に言われた、先生からの「あなたのことが嫌い」という言葉は、

まだ体の小さい自分にとって、
大人から嫌われることの恐怖感を味わうには、
十分すぎるほどショックな言葉でした。

自分だけが嫌われたんだ、という疎外感。

間違って伝わったことを、
自分ではどうしようもできなかったという無力感。

大勢の友達の目の前で言われて感じた、恥ずかしさと劣等感。

自分の中でいろんな感情が巻き起こり、
僕なりの意味づけをしてしまった経験でした。



そして、自分の家以外で、安心して自分が存在していいんだ、
と、唯一思えた幼稚園という場所が、
一転して安心できる場所でもないんだ、という場所に変わっていきました。

この体験がきっかけなのか、
小学校に進級しても、僕は初めて会う大人のことはもちろん、
大人の顔色を伺ったり、少し機嫌がわるい友達や
大人が自分の周りにいると、

「自分のせいで、自分のことが嫌いだからこの人は機嫌が悪いのかも」

そんなふうに感じてしまうことが多くなっていきました。

やがてそれは自分が成長していくにつて、
だんだんと強く感じるようなっていきました。

嫌われたくないから、自分のことを話さない、あまり主張しない。
まわりの様子を見ながら、本当に自分を出していいか判断する。

そんなふうにして自分を生きてくようになりました。

価値観が作られていった時期



心の拠り所になった、好きなこと

本来、僕は楽しいことが好きです。

自分が楽しいことをやっている時は、
めちゃくちゃ自分を生きてるなあ、と感じます。

たとえば、中学生になって、また新しい世界に身を置いた自分は、
もっと自分の体が小さかったころに比べて、
比じゃないほどたくさんの情報が「友達」という存在から入ってきました。

その一つが音楽でした。

当時流行り始めたMTVを貪るように見て、
レコードを借りまくり、カセットにダビングして聴きまくりました。

嫌われたくないから、嫌われるのが怖いから、
自分をあまり出さないようにすごしていた自分にとって、
音楽をやっている海外のアーティストは、本当に憧れの存在になっていきました。

自由に音楽を作って、それがたくさんの人に喜ばれ、
ファンになってもらえる。

嫌われるのが怖かった自分にとって、
自分とは対極の生き方しているように見えた
ミュージシャンや音楽アーティストは、
本当に自分にとって憧れの存在でした。

自分の感情を震わせてくれる感じが心地よくて、気持ちよくて、
僕はどんどん音楽を聴くことにのめり込んでいきました。

そして、音楽を聴いて自分の心を震わせるだけじゃなく、
自分で音を奏でて心を振るわせたい、と思い始めたときに、
気づくと僕は、自分でエレキギターを手にしていました。

ギターを手にして、覚えたてのコードを鳴らした瞬間、
自分が憧れたアーティストに、ほんの少しだけ近づけた気がして、
それまでに感じたことがないくらい、自分の気持ちが高揚しました。

楽しいことがしたい。

自分を存在させたい。

自分にしかできないことがしたい。

その体験が、「楽しいこと」が「自分にしかできないこと」
につながっていくんだと、信じるようになりました。


好きだと思ったことが…

やがて社会に出る時期になっても、「自分にしかできないこと」をやりたい、
と感じる自分はあいかわらずいました。

でも、その自分にいつもきづいていたわけではありませんでした。

たとえば、僕は最初に就職した会社は自動車ディーラーで、
職種は営業職。

クルマに関わりたいと思ったのは、
単にクルマが好きだったから、という理由と、
機械を触っていると楽しい、クルマを運転していると気持ちいい。
クルマに関わっていると、自分が「楽しい」と思えたから。

でも、これはけっして「自分にしかできないこと」ではありませんでした。

クルマを必要としている人がすべてクルマが好きな人ではなくて、
むしろ、自動車ディーラーにクルマを買いに来る人は、
クルマが好きな人ばかりでもない。

それは、いろんな理由や事情があって、必要なものを買いに来ている。
それがただ、「クルマ」なだけで…。

クルマを買う理由は人それぞれでしたが、
残念ながら、僕から買ってくれた人で、
僕だから、という理由で買ってくれた人は、ほぼいませんでした。

お客さんはお得なのが好きで、損したくはなくて、
僕はというと、クルマは好きだけど、売ることは好きでもなくて、
自分だから関われる人と関わりたい…

当時はうまく言葉にできませんでしたが、
なんとなく、そんなふうに感じていました。

そう感じながらも、新卒で入ったからには、
石の上にも三年、という、今となってはあまり意味のない
言葉をやみくもに信じていた僕は、

入社して三年たったころ、新卒で入社した自動車ディーラーを辞めました。

このままが続くのが嫌だったから

さあ、辞めてなにをしようか。

今から思うとおそろしくまあ呑気なもので、
まだ若いし、バイトでもしながら本当にやりたいことを探そう、

なんて思っていました。

でも、

楽しいことがしたい。
自分を存在させたい。
自分にしかできないことがしたい。

なんとなく、ここだけは絶対に外せないと、無意識に感じていました。

そう感じたのは、自分を受け入れづらくなるきっかけとなった、
5歳のころの体験を、どこかで引きずっている感覚が
あったからかもしれません。

そう感じた時に、

「やっぱり自分にしかできないことがしたい」

「自分にしかできないことってなんだろう」

「自分にしかできなくて自分も楽しいことってなんだろう」


と考え続けました。

一度目のターニングポイント



これが自分にしかできないことだと思った、衝撃的な出会い


考え続けた結果、音楽を奏でることと同じように、
なにかしら自分の「手」から生まれたものは、どんなものであっても、
「自分らしさ」が必ず出るはず。

そしてその時期に、ひよんなことから、
グラフィックデザインという仕事について知る機会がありました。

いわゆるものづくり。クリエイティブな仕事。

当時、一般的にパソコンでデザインを作り始めるようになった頃です。

たまたま知ったグラフィックデザインを仕事にしている人と
知り合うきっかけがあり、その知人の職場に行った時に、

「試しに、このMacで今自分の名刺をデザインしてみなよ」

とそそのかされて、僕はおそるおそるデスクのMacに座らせてもらい、
デザインのアプリケーションを立ち上げ、
その知人に手取り足取りしてもらって、自分の名刺を作ってみました。

そうしたら、完成するまでのプロセスもものすごくワクワクし、
これまで使ったことのない頭を使い、いざ完成してみると…

「自分の頭の中で考えたことが形になる喜び」

を、初めて知りました。

この体験は、当時の自分にとってかなり衝撃的な体験でした。

自分の頭の中で描いたものが現実になる。
そんな感覚でした。

しかも、それを仕事で関わるとなったら、
お客さんから依頼があって、形にして、
それを大量に印刷し、世の中で売られる。

こんな衝撃的で、しかも自分にしかできなくて、
それが形になってよろこんで買ってもらえる仕事なんて、
他にあるだろうか、とまで思いました。

そこからはもう、一気に自分の価値観が劇的に変わり、
デザインの仕事に就くため、なんとかしてデザイナーになるため、
どうしても自分にしかできない仕事がしたくて、
自分の時間のすべてを使っていくようになりました。


自分にしかできないことを形にする手段として

それからは、知人にMacを使わせてもらいながら、
デザイン事務所に雇ってもらうために自分の作品を作り、
できあがった作品をポートフォリオにまとめて、

「僕を雇ってください。お願いします」

といって、面接の機会をもらう日々が続きました。

その時点ですでに僕の年齢は25歳を過ぎ、同年代のデザイナーなら、
とっくに一人でデザインを任されているような年齢。

何度も面接で断られ、時には学校も出てない、
年齢もいってるのに何もデザインの仕事をした実績がない、

という理由で断られることがほとんどでした。

なかには、

「今から始めようなんて無理だからやめときな」

なんて言われることもザラでした。

たしかに、その年齢から始めようとしている自分は、
今でこそなんて無謀だったんだろう、と思いますが、
それほど自分は、自分にしかできないことがしたかった。

そして、初めてMacで自分の名刺を作った時の衝撃が忘れられなかった。

なんとかして、自分にしかできないことを形にしたい、
という気持ちだけで、その当時は生きていました。

そんなある時、いつものように、今思うと作品とも呼べないような
自分の作品を見てくれたデザイン事務所の社長さんから、

「やる気だけは買ってもいい。ウチで面倒みてやる」

と言ってもらえたんです。

これで晴れて、デザイナーとしての仕事に就くことができました。

そこで毎日深夜まで働き、終電で帰れればいい方で、
時にはデザイン事務所のデスクでうずくまりながら寝て、
翌朝目が覚めると、また仕事を続ける、という日もありました。

こうしてボロボロになりながらも、僕はなんとかして、
「自分にしかできないこと」を形にする仕事に就くことができたんです。

その後も、デザイナーとしてのキャリアを積み上げていきました。

時には楽しく、時には苦しみながら。

思うような仕事ができる時もあれば、
思うような仕事ができない時もある。

でも、おおむね僕は、自分で願っていた、

「自分にしかできないこと」

であるデザインの仕事で、数回デザインの仕事の職場を変わり、
実績と自分のできることを増やしていきました。


挫折と、孤独感



調子に乗って失敗した、一度目のひとり起業

そうして自分のキャリアを積み上げいって、30歳になったころ、
また一つ自分のできることを増やし、ステップアップしたい、と考えて、
それまで勤めていたデザイン制作会社をいったん退職しました。

すると、それまで勤めていた会社のお客さん、数社の担当の方から、

「今度は会社から個人的に仕事を発注したいので、お願いできませんか?」

というありがたい言葉を、かけていただきました。

「もしかしたら、これが何かの転機になるかもしれない」

と、デザインの仕事をするようになって初めて、
自分の名前で仕事をお願いをされたことが嬉しくて、
ありがたく引き受けさせてもらうことにしました。

そこから一年目は順調に売上の伸ばして、
仕事の依頼も繰り返しリピートでお願いされたり、
紹介で仕事も広がっていったりと、
一見順調に行っているかのように思えました。

フリーランス二年目に入り、僕の受注している仕事は、
だいたいこの三つに分類されていきました。

毎月決まった仕事、
ただずっとやっているから引き受けているルーティンワーク、
仕事を失いたくないから、単価が低くても仕方なく受ける仕事。

これらはみんな、自分ではなんの努力もなく、
ただ依頼をいただけるから引き受ける仕事。

気づけば、「自分にしかできないこと」には
ほど遠い仕事も多くなっていきました。

受注がなくなるのが怖くて、なかなか思い切った提案ができなかったり、
思い切った提案ができないから、
お客さんの無理な発注にも応えなければならなかったり。

仕事が来ない…


たとえば、明らかに単価が低く、他のデザイナーに断られて、
結局最後に僕のところに依頼が来たんだろう、
と想像できるような案件もありました。

「すみません、どうしても鈴木さんにお願いしたい件がありまして…」

というお客さんからの電話。

電話で詳しく内容を聞きいていくと、
なんとなく他のデザイナーにお願いしたけど、
断られたんだろうな、ということは話し方の様子でわかりました。

そこまで聞いてから、恐る恐る、

「で、納期はいつでしょうか?」

と聞いてみれば、あきらかに睡眠時間を削るしかないほど短納期。
しかもそういった案件に限って、
単価がものすごく低いということもザラにありました。

そんな依頼も増え始め、さらには、納期がなさ過ぎて、
当時住んでいた僕の自宅兼作業部屋に、担当の方が来て、
横に座って仕上がりを待っている、なんていうこともありました。

それでもフリーランスとして、仕事を断れば次がない、という不安から、
仕方なく受けているような状態が続きました。

さらに追い討ちをかけるように、

仕事を発注してくれていた数社の担当者さんの人事異動や、
退職が重なったのです。

「じつは、人事異動でもう制作には携わらなくなりまして…」
「幸い前からやりたかった仕事に転職することになりました」
「上司からの命令で、次回からコンペにさせてもらいたく…」

そんな状態で心の健全な状態が続くわけもなく、
なんとなく、自分の様子が伝わっていったのでしょう、
関係がうまくいかないお客さんも出始めました。

そして気づけば、僕の自宅兼作業部屋の壁に貼ってあった、
仕事のスケジュールを書き込んでいた白いカレンダーは、
だんだんと空欄が増えていき、もとの白さに加えて、
さらに悲しいほどの白さを増していきました。

仕事が来ない…。

フリーランスとしてこれほどの恐怖と不安はないと言っていいと思います。

勇気を出して、営業にいくか?
営業に行って、「何か仕事はありませんか?」と聞くか。

当時の僕の頭では、思いつくのはそのくらいでした。

でも、それさえ、そんなことを言いにお客さんのところにいったら、
仕事に困ってると思われて、さらに仕事が来ないんじゃないか、とか、
それがきっかけで発注を断られたり、
もっと低い単価でやらなければならなくなったり。

そんな思いが巡って勇気も出ず、
僕はなにもすることができなかったんです。

精神的に追い詰められた僕は、もうなにもする気力がなく、
部屋は荒れ放題、ゴミは溜まりっぱなし。

毎日誰とも会わず、人と会話をしない日々が続きました。


やっと口を開いたのがいつだったかと思い出せば、
夜になってからようやく外に出る気になって出かけた、
コンビニエンスストアで弁当を買ったとき、

「あたためますか?」

と聞かれ、

「はい…」

と返事をした時くらいだな、と思った時に、
ものすごい孤独感と不甲斐なさと、
やりきれなさで押しつぶされそうになりました。

「自分は、いったいなんのためにフリーランスでやっているんだろう…」

そんな思いがぐるぐると、
自分の頭の中を巡っては消え、巡っては消え、
次第にそれは自分の頭のなかで、どんどん大きくなっていきました。


安堵感と燻りのあいだで



皮肉にも安堵した、自分にとっての不本意な選択

その時は、そんな問いに向き合う余裕もなく、
自分が過去にとった選択から、ただ逃げ出したかった。

結局僕は、「自分にしかできなこと」をあきらめて、
フリーランスとしてのキャリアを、たった三年という期間で閉じ、
もう一度就職する、という選択をしたのです。

その時僕はもう34歳になろうとしていました。

ありがたいことに、そんな僕でさえ拾ってくれたデザイン事務所があり、

そこからまた僕は、会社員デザイナーという肩書きで、
生きていくことになりました。

結局僕は、そこから十数年のあいだ、何度か会社を変わり、
会社員デザイナーとして生きてきました。

「自分にしかできないこと」をいったん封印したのです。
いや、そんなかっこいいものではなく、

「自分にしかできないこと」から逃げた、
と言った方がいいかもしれません。


不健全な存在感の感じ方をしていた会社員時代

その十数年の間、いろんなことがありました。

結婚、子供が生まれ、家庭ができた。
初めての子育て、夫婦間の危機、家庭を考えてのさらなる転職。

楽しいことも、苦しいことも、今まで以上にたくさんありました。
でも、それも家族ができたことで、楽しさも苦しさも一人じゃない、と
思えるようになったのが、一人身の時とは違いました。

いつしか、そんな当たり前の生活が、
本当は幸せで一番大事なのかも、といつしか思うようになり、

でも、かたやそう思えば思うほど、かつてあれほど探していた、

「自分にしかできないこと」も、自分の心の片隅に、
ほんの少しの破片くらいの大きさで、時々僕の喉と心臓のあいだあたりを
つつくような感覚がありました。

その感覚さえ、僕は自分で気づかないフリをしながら、
自分の今の生活を守ることが、幸せなんだと言い聞かせながら、
四十代を生きていました。


会社ではそれなりに年齢とキャリアを重ねた人間として、
若い社員を引っ張らなければならないポジションを与えられたり、

社内での人間関係に翻弄されて、誰が敵で味方なのかわからなくなったり。

それでも、ときどき気の合う同僚たちと、会社帰りの居酒屋で、

「この会社のダメなところはさあ…」
「あの上司のやり方、終わってるよな」
「今度の人事異動で〇〇さんが昇格らしいよ、ありえねえし」

そんな愚痴を酒の肴にして、うっぷんを晴らすという、
自分が一番やりたくない自分になってたことさえ、
自分で気づかなくなっていきました。

でも、それと同時に感じていた、
とりあえず給料は止まることはない、という安心感。

人間の安全欲求という本能は、本当に強く働くものだと感じました。

この時くらいになると、
時間というのは本当に残酷なもので、あれほど探していた、

「自分にしかできないこと」への問いは、よほどのことがないと、
もう僕の喉と心臓のあいだあたりをつつくことは、
だんだんとなくなっていきました。

二度目のターニングポイント



四十代から変わりたいと思ったきっかけ

でも、ある時、その「よほどのこと」が起こりました。

たまたまみていたSNSに流れてきたひとつの広告。
そして、目に飛び込んできたキャッチコピー。

「あなたにしかできないことがある」

このキャッチコピーを目にしたのと同時に、
僕はその広告をクリックしていました。

でもある時、よほどのことが起こりました。

たまたまみていたSNSに流れてきたひとつの広告。
そして、目に飛び込んできたキャッチコピー。

「あなたにしかできないことがある」

このキャッチコピーを目にしたのと同時に、
僕はその広告をクリックしていました。


すると現れた広告ページ。
どうやら起業講座のようでした。

それまでの僕は、起業講座を受ける人なんて、
よほど優秀な人か、根性のある人か、などと思っていました。

でも、よくよく読み込んでいくと、
いわゆ普通の人が、コーチングビジネスで
いきなり大きな売上という結果を出していたり、
ビジネス経験のない主婦が稼いでいるとか、
ウソような本当のことが、書いてありました。

怪しい…。

僕は直感でそう思いました。

でも、「自分にしかできないこと」を探していた僕は、
心のどこかで、「あなたにしかできないことがある」
というキャッチコピーを打ち出しているその講座を、
一度信じてみよう、という気持ちもありました。

「自分にしかできないこと」が見つかるかもしれない

そう思った僕は、会社員でいながら、起業講座を受講することになり、
副業からコーチングで自分の事業をもう一度始める、
という活動に入っていきました。


価値を伝わる形にさえできれば…。

会社員でいながら、副業を続けることは、
それほど簡単なことじゃありませんでした。

自分にしかできないことで、
自分だけのお客さんに契約をしてもらう。

このことが、どれだけすごい難しいことなのか、
痛いほどわかりました。

反対に、自分と契約していただくことが、
どれだけ価値の高いことなのかも、痛いほど身に沁みました。

僕は起業講座でも売上面、お客さんの人数でも
結果を出すことができませんでした。

この時、30代で一度デザイナーで起業した時に、
どれだけ自分が恵まれていたのか、

どれだけ自分がお客さんに失礼なことをしていたのか、
身に染みるほど痛感しました。



僕はお客さんになってもらえる人を探すために、
何度も何度もメールを送っても、
何度も何度も体験セッションをおこなっても、

お客さんは、誰一人として僕と契約をしていただくことは
ありませんでした。

こうして一年が過ぎ、二年が過ぎ、三年目になるころ、
僕は自分がなにをやっているのか、わからなくなりました。

もっというと、
自分がお客さんに何を買ってもらおうとしているのか、
まったくわからなくなりました。

「自分には買ってもらえる価値がない…」

そんな気持ちになっていきました。

買ってもらえる価値が自分にはないと思っているのに、
どれだけお客さんに体験セッションをおこなっても、
買ってもらえるはずがありません。

「価値が見えてないから、伝わらない」

自分の価値をはっきりと形にしていく作業に取り組みました。

それまではっきりとしなかった、自分の価値。
これを相手にとっての価値や魅力に変えていく、
自分だけの商品をつくりました。

自分は今までどんな人生を生きてきたのか?

だれに喜んでほしくて、どんなことでそれをやるのか?

自分はなにを一番大事にしてきたのか?

とにかく自分を掘って掘って掘り起こしていって、
自分の商品を形作っていきました。

こうして自分だけの商品が完成したとき、
ものすごく自分が満たされた気持ちになったのを
今でも覚えています。

自分が生きてきた今までのことが、
誰かの役に立てる商品として、形になったのです。

これを必要な人に早く届けたい!

必ず自分がこの商品で幸せできる人がいる!

こんな気持ちに心からなれました。

すると何が起こったかというと…

あれだけ「自分には価値がない」と思っていた自分が、
心から自分の価値を伝えて、これで人の役に立ちたいと思えて、
役に立てたときには、泣けるほど嬉しくて。

「自分にしかできないことで、幸せを届ける」ことが、

少しずつできていくようになっていきました。


自分にしかできないことで、幸せを届けるために


不思議なもので、自分が幸せを届けることができる人は、
どこかその人の中に「自分」を感じていきました。

その人の中に「自分」を感じれば感じるほど、
お客さんのことを大切に思うことができました。

するとさらに、心から大切にしたいと思える
お客さんが来てくれました。

それまで「価値のない自分」と感じていた僕は、
それからはもう、そんなことはどうでもよくて、
心から大切にしたいお客さんのことを
ずっと考え続けるようになっていきました。

心から大切にしたいお客さんが、
自分と関わったことで、

できないと信じていたことが
できる、と思えるようになれたり、

まだあきらめずに自分にしかできないことを
探したい、と言ってくれたり。

相手が楽しくなってくれるのが、自分も楽しくなる。
相手が喜んでくれるのが、自分も嬉しくなる。

楽しいことがしたい。

自分を存在させたい。

自分にしかできないことがしたい。

子供のころにこう思っていた思いが、
ようやく少しずつ形になっていきました。

自分のことのように感じることが、
そこに一番近づけると気づきました。

相手の中に自分を感じる人だけに。

それが、「自分にしかできないことで、幸せを届ける」
ことなんだと、気づきました。

でも、それを僕に気づかせてくれたのは、
自分の価値を、相手にとっての価値に変えて伝えたら、
僕に手を伸ばしてきてくれた、他でもない、お客さんでした。

お客さんが僕と関わったことで、手にした結果だけよりも、
出会えたことに喜んでくれることのほうが、
飛び上がるくらい嬉しかった。

一緒に関わった時間が、なにより大切なものになった、
と言われたことのほうが、泣くほど嬉しかった。

そして、そんなお客さんと出会えたこと、
お客さんの中に自分自身を感じられたことで、

過去の僕があれほど自分が願っていた、

楽しいことがしたい

自分を存在させたい

自分にしかできないことがしたい

ということの意味を、学ばせてくれたのも、
全部、大切に思えたお客さんでした。

こうして僕はようやく、長い長い時間をかけて、
5歳のころの自分が求めていたこと、
自分一人で探し続けた「自分にしかできなこと」の意味を、
お客さんと関わることを通して、意味づけることができました。

あれほど一人で頑張って探し続けた「自分にしかできないこと」は、
自分一人だけでは、探しあてることはできなかったんです。

「自分にしかできないこと」で、
相手と関わって幸せに導くから、自分も相手も幸せになれる。

だから、そのことを伝えるために、
「自分にしかできないことで、幸せを届ける人を増やす」ことが、
僕自身の幸せにもつながっていくことだと感じています。

そしてもっともっと、「自分にしかできないことで、幸せを届けられる人」
を増やすために、活動していきます。


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