〓 株式会社NeonFuture 創業に際しての起案書 〓


  • 記載日:2024年5月26日(日)

  • 概要:株式会社NeonFuture の創業の経緯と狙うべきヴィジョン ミッション バリューの明確化
     - 並びに各種事業計画書の策定

  1. 会社設立の経緯

  2. NronFutureが目指すべき 狙うべくヴィジョン/ミッション/バリュー

  3. 会社概要
      - 登記簿謄本

  4. 事業計画
      - 2024年6月の1ヶ月間
       - 2024年7月~9月 第1Q

    • 2024年10月~12月 第2Q, 2025年1月~3月 第3Q, 2025年4月~6月 第4Q

  5. 初期の立ち上がり
      - 資本金/資本政策/立ち上げメンバー/初動の1年 そこからの2年3年5年Plan


  1. 会社設立の経緯
    FOUNDER岡山潤の想い。
    法人格設立にあたりまして、初動 株式100%オーナーとして岡山潤が立ち上げます故、こちらは岡山潤の想いが100%込められたものとなります。
    故に まずは 岡山潤の説明から入ります。

岡山潤
生年月日:1981年9月5日 北海道標津郡 中標津町生まれ
岡山潤の血:標津郡中標津町で生まれ、記憶があるのは2歳から5歳まで住んだ北海道空知郡砂川市から。5歳から7歳まで北海道札幌市手稲金山にて過ごし、7歳から20歳までを北海道札幌市西区西野にて過ごす。
 岡山の血は4代5代前に明治30年代後半、北海道の標津郡斜里町に入居したのが始まりと言われている。その前は、江戸時代 今の徳島県淡路島にて徳川方大名 徳島藩の蜂須賀家に仕えた武家であり、江戸時代の戸籍では 淡路島の蜂須賀領に家を構えていたと記されている。
 それが岡山の血。
 一方 私の祖父「岡山去風」の妻である「小木ミツエ」は福島県を発祥としたこちらも武家出身であり、今の標津郡中標津町や知床羅臼あたりを開拓した血であると聞いている。その小木家の三女であったミツエと、戦後間もない昭和初期 北見を拠点として保険の外交員をしていたという祖父「岡山去風」が結婚し、長男である私の父「岡山英郷」が生まれたと聞いている。
 私自身は、「岡山英郷」と、北海道虻田郡泊村を実家に持つ「宮川優子」との間に生まれた次男。父「英郷」が18歳より 北海道空知郡の滝川高校を卒業後、北海道警察として務めた故、父の転勤の都合上、都合よく 父方の祖母の本家である中標津町に勤務していた際に生まれたのが私「岡山潤」であります。
岡山潤の少年期の記憶:
 前述の通り、記憶があるのは空知郡砂川市にいる頃からです。いくつかのエピソードがあります。その後5歳から札幌市に移住。砂川市の幼稚園にいた時、双子の女の子に「番長」と呼ばれていた事を記憶しています。
 小学校に入学後も人一倍体は大きく ヤンチャな子供であったと思います。負けん気が強く、周りの子達を良く泣かせていました。
 小学校は1年生の3学期から札幌市立西園小学校に転校しまして、その頃人生で唯一"いじめ"を体験しましたが、2年生の頃からは自分を主張して、4年生や5年生の頃からは小学校のガキ大将になっていたと記憶しています。小学校はサッカーのキャプテンをやり児童会会長をやり。
 中学校に入学後も 周りには何人か不良の道に進んだ友人もいましたが、私は、父が警察官という事も大きく、また、母の勧めで 医者になりなさい と言われていた事も影響して 辛うじて(?)不良の道には進まず、中学校の成績もオール5に近く 生徒会会長もさせて頂きました。
 中学校の学校全員が友達であると僕は思っていたように思います。現に、きっとですが、僕よりも友達の多かった人は居ないのではないかなと思っております。
 岡山潤の高校の記憶:
 私が高校に入学した1997年当時(2024年から27年前)、日本国内に根強い不良文化があったのだと記憶しています。全国の少年たちが読む「週刊少年ジャンプ」「週刊少年マガジン」「週刊少年サンデー」には不良少年漫画が溢れておりました。
 テレビではお笑い芸人の「ダウンタウン」が全盛を極めており、札幌の片隅にいた僕たち少年は 不良少年漫画とお笑い芸人の二つの影響を大きく受けながら成長していったのだと記憶しております。
 私自身 多分にもれず それらの影響を大きく受けて育っておりまして。高校に入学したら 腰パンで 髪の毛を染めてピアスを開けて眉毛を剃って胸を張って札幌大通公園に行くと 似たような不良っぽい格好の男子高校生達が各地におりましたゆえ、互いにガンを飛ばしあって、時に「お前何見てんのよ?」「ああ?見てねえよ」と言い合い小競り合いを繰り返したものです。
 高校時代は 道内で一番の進学校に入学出来た事への満足もあった故、大学受験勉強には全く精を出さずに遊び続けました。バンド活動を行い、
 大好きだったサッカーは1年の冬に辞め、2年の夏からは彼女が出来て彼女に完全にハマり、勉強は全然手がつかず。同じ高校の男の子達よりも、地元の不良っぽい男の子達と遊ぶことが楽しくて、大いに青春を謳歌させていただいたと記憶しております。
岡山潤の浪人時代:
 浪人生活は非常に過酷でした。10代最後、当時の少年法でギリギリに護られている事を認識していた上で、浪人期にもかかわらず、大学受験勉強には全然力が向かわずに、勉強ぽいことはしていたものの、周りは遊びに興じる仲間多く誘いも多く、浪人1年でも歯は立たず、2年の浪人を経て、その間に警察のお世話にもなりつつ、最後2浪目の9月から12月の4ヶ月間 フルでコミットして勉強を頑張った結果 中央大学経済学部にトップ入学し学費無料の特待入学を得ることができました。
岡山潤の大学時代:大学時代は特に、アルバイトと極真空手に励みました。特定の彼女を作る事なく。(強いて言えば1年半不倫に溺れてはおりましたが)
 極真空手は大学1年の5月あたりから本格的に力を入れるようになりまして、大学3年生の8月 極真を本格的に始めて2年4ヶ月で"国際空手道連盟極真会館松井派 関東大学生大会 団体戦/個人戦"共に優勝する事ができました。
 目標はもちろん全日本大会。国内の(海外選手も数名参加しますが)最高峰の大会である選ばれた128名しか出場する事の出来ない大会に出場しようと。
 まずは大学3年時 大学生最大のイベントである「就職活動」があります故、就活をサクッと片付けて、大学4年次の11月開催の「極真会館全日本大会」に人生を賭けようと思っていた、忘れもしない、2005年4月26日 深夜0:40 国道16号戦 神奈川県相模原市橋本の交差点で,僕は、120km/hのスポーツカー フェアレディZに撥ねられて 僕は原チャリに乗っており 生身の体に直に直撃し、即死寸前のまま、相模原市の北里大学病院に救急で運ばれました。
 背骨が2本潰れ、坐骨骨盤骨折 左膝半月板損傷 膀胱損傷 そこから半年間 寝たきりとなりました。
 - 就職活動は 2005年2月頃から 自己分析を始め、周りから情報を集めて、自分で受験する企業を選択し探して、3ヶ月間ほど行っていた時でした。株式会社リクルートは4次面接を突破しており、株式会社三井物産は3次面接まで進んでいました。個人的には、「独立/起業」に興味がありました故、当時ちょうどIPOするタイミングであった株式会社DeNAに興味を持っており、のタイミングでした。
 - 結果としては、リクルートにも興味があったし DeNAにも興味がありましたが、交通事故に直面する前日 2005年4月25日夜 電話にて 新卒の内定を得ていた、大学4年時の4月時点では唯一内定までたどり着いていた「株式会社インテリジェンス」に入社する事を決意しました。

 - 入院中 寝たきりの 病院のベッドの上で 考えました。時間が経つのが異様に遅かった。体が動かない。上半身を全部ギプスでぐるぐる巻きにして。体重は72kgくらいだったのが88kgくらいまで増量した。毎日みんなお見舞いに来てくれた。大学の友達、バイト先のシダックスの友達、極真空手の先輩後輩、その他。
寝たきりの病院で考えた。
 新卒入社の1社目はとても大事だ。 僕自身は大学3年時 大学の仲間達と起業しようと話をしていた。それも、ただ、とりあえずまずは就活に集中しようと話していた。保険として。けれどもなるはやで内定は取ろうって。その後大学4年時 時間がある。僕の大学4年時の大きな目標の2つ。一つは「極真会館全日本大会に出ること」もう一つは「大学の仲間と起業すること」だった。その二つともが流れた。一つの交通事故で。
 これからどうして生きていこうか 考えた。この1年間をどう生きていこうかと。幸い、不幸中の超幸いに、僕は脊髄は損傷していなかった。圧迫骨折した第五第六腰椎も自然治癒するという。若さの強さか。
 首や腰の痛みは一生残るし、変形した背骨は一生治らない。左膝の半月板も無くなった。けれども、また、歩くことは出来る様になるという。
           1年間。
 僕の事故は 法定速度を70km/h以上オーバーしていたフェアレディZ乗用の犯人が100%近く悪い事になっていた。
 10代後半 敵だと思っていた警察は ああ 味方なんだなあ市民の為に戦って悪い奴を倒してくれるんだあ って改めて思っていた。
 故に。就職浪人する明確な理由があった。学費も、犯人が悪い故、犯人側の保険で補ってくれると聞いていた。就職浪人するルートはできていた。          でも、病院のベッドで考えた。ただでさえ、高校時代 大好きに全力で生きて、勉強なんて全くしなくって、結果2年も浪人することになった。
  ただでさえ、同級生達から僕は2年のビハインドがある。
 これ以上、遅らせるわけにはいかないじゃないか。
 半年経てば、びっこを弾きながらでも歩ける様になる。
 就職浪人した1年と 半身不随で入社する1年 どっちが自分の人生にとって良いのかはわからなかった。けれども、どっちの方が大変なんだろうって思った。明らかに、半身不随で入社して社会人人生を始める1年間の方が辛い/大変だと思った。
論理的帰結は出来得なかったけど、感覚として思った。きっと 若くして 苦労した方が のちの人生 プラスに活きるだろうって。
だから僕は より不利であろう そのままの インテリジェンスへの 入社を決めた。
現に入社した2006年4月時点では 僕は 左足がいう事を聞かず 松葉杖をつきながらの入社になった。
インテリジェンスの人事の方々 並びに諸先輩各位は 僕の事を 評価してくれていた。

- 僕が「株式会社インテリジェンス」に入社を決めた理由はもう一つあります。
もちろん 就活が3ヶ月しか出来なかったから はありますが、同時に、入社を決意させるに十分な理由がありました。
2005年当時 22歳だった僕は 社会なんて本当に全然分からなかった。知らなかった。まずは社会とか世間とか日本とか世界とかを 知らなくちゃって 思った。
その折に受験させていただいた「株式会社インテリジェンス」
入社を決めた理由は以下の3点
1. 日本という国を 東京という都市を 広く知れる
2. 人材会社 に生きる人の魅力
3. 鎌田和彦の存在

  そうして僕は、2006年4月に 株式会社インテリジェンス に入社させて頂きました。

岡山潤 1社目 株式会社インテリジェンス(2006年4月-2009年8月)


- 前述の通りで入社したインテリジェンス。就活当時は社員数600名くらいだったと記憶してます。我々2006年新卒入社で300人。
就活当時6次面接まであったんだっけな。我々が入社した時点で全社員で1,000名になっていたかと思います。
当時の東証ジャスダックに上場しており 時価総額は2,000億円を超えていました。株式会社リクルートの一党独裁と言われていた国内の人材マーケットにおいて、リクルートを追随する、俺たちがリクルートを超えるんだという強い意志を持った同士の集団であったと記憶しています。
    - そこで僕は「営業」を学びました。
社会を何も知らない頃。ルールも何も知らない。アルバイト求人メディア「OPPO」の営業として、初めこそ売るコツを掴むのに試行錯誤を経たものの、半年も経つと売れっ子になってきておりました。結果、入社1年目の最終月 2007年3月には 東京都中央区を担当させて頂いている中、
月間予算250万円に対し 620万円程度の売り上げ 達成率248%を記録したかと思います。
- 入社2年目以降は 部下も付き チームリーダーとして活動を行いました。同時に 学生援護会との組織融合は大変でした。同時にリーマンショックが世界を包み込む中でありました。
- 3年強のインテリジェンス生活を経て 時代はITだと 「上場フェイズのITベンチャー」にいこうと転職を決意。
結果内定を得た 株式会社DYMと 株式会社リブセンスの2社。結果 リブセンスへの入社を決めました。

岡山潤 2社目 株式会社リブセンス(2009年9月-2012年11月)


- ジョブセンス派遣の1人での立ち上げ 年商2億 経常利益1億8,000万円

岡山潤 3社目 株式会社リクルート事業会社 株式会社エモーチオ(2012年12月-2014年4月)

岡山潤 東京にて独立(2014年5月- 現在)


   - 株式会社PKSHA Technologyの創業黎明期~東証マザーズIPO
 - 数社 スタートアップ顧問
  - AI企業 データ企業 HR企業 等
   - 2017年10月〜浅草
   - 2018年9月~旅人
    - 2020年1月~2023年5月 酒とゲームによる現実逃避(向こうの世界に飛んでいく)
  - 2023年6月5日~ 社会復帰
   - AIQのサポート ニセコ曽我の立ち上げ 利尻島への旅 東京Saas系へのアプローチ 六本木AI企業CROポスト内内定 自社立ち上げNeonFuture

岡山潤 ようやく 法人登記(人生の勝負_2024年5月26日現在〜)

  - という経緯を経て ようやく 42歳にして 新会社の創業。


2. NronFutureが目指すべき 狙うべくヴィジョン/ミッション/バリュー


 
  

  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?